デジタル伊東辞書

このところ、ゾンカ辞書にすっかりはまっているわけだが、きっかけはブータン友好協会会員の伊東昭代さんの自作辞書である。この辞書、B4版に手書きで158ページ、語彙数推定3000という超大作で、実物を見たことがある人は少ないと思うが、いったいどれだけ時間を掛けたのかという労作だ。伊東さんとは昨年来なにかとお会いする機会が多く、現物を見せてもらっていたのだが、執筆も大変だったろうが、いざ出版となると編集も大変だわい、というのが正直な感想だった。

伊東辞書は日本語の読みを見出し語として(従って五十音順配列)漢字および同義語(日本語)、ゾンカ対訳(ゾンカ文字)、ローマ字化ゾンカ、英語が併記されている。ゾンカ文字は普通は読めないし、また、ゾンカ文字による表記では発音しない文字などが多量に含まれているため、基本的には表音文字であるにもかかわらず、かなりゾンカに習熟していないと文字から発音を想像するのは難しい。また、ゾンカの文語の綴りは、現代口語の音写ではなく、古典チベット語に近いものとなっているため、現代口語の発音が古典チベット語の正書法が確立した時期から変化している場合や、チベット語の発音とゾンカの発音が違う場合には綴りと発音に乖離がある。ゾンカの公式ローマ字方式では、こういった綴りと発音の乖離をある程度吸収しているため、綴りが簡略化されているだけでなく実際の発音に近いという利点がある。つまり、ローマ字化ゾンカは、ちょうど日本語の仮名のように、一種の発音記号として使えるのである。

一方、現状のローマ字化ゾンカにはいくつか問題点がある。1つは正書法が確立しているとはいえず、DDCが開発した「公式」ローマ字表記以外に幾つかの方式が混在していること。このあたりは日本語のローマ字化におけるヘボン式、訓令式などの揺れと事情がやや似ているが、事情はさらに複雑だ。ゾンカは単音節の単語が多く、結果的に同音異義語が多い。またアクセントによって区別される語が一定数ある。ローマ字化の結果、ゾンカ文字表記では発音しない文字などによって区別することができる同音異義語が区別できないといった問題が生じる。このことは、日本語で和語と漢語のどちらがローマ字化に向いているかを考えればある程度想像がつくはずだ。

要するに、ゾンカ文字表記とローマ字化ゾンカが併記されているのがベスト(IPAの発音記号が併記されていればさらによいわけだが)ということになる。しかし、いざやるとなるとこれが大変な作業になってしまう。ローマ字化ゾンカは前述の「正書法が確立しているとはいいがたい」という問題があるため、たとえば地名のような固有名詞においても表記法にばらつきが多い。

よく知られている例として、トンサは昔「Tongsa」と表記されていたが、現在は「Trongsa」と表記される。この件を「ブータン政府が地名の表記を変えた」と説明する人がいるが、それは正しくない。トンサは発音もゾンカ表記も昔から現在まで変わっていない。ある時点で、ローマ字表記の方式を変えた(というより、それまでは単に英語話者が聞き取りで綴りを勝手に決めていたのが、ゾンカ文字をローマ字化するための公式の方式が決まったのでそれに従うようになった)だけである。ちなみに、トンサの場合、ゾンカ文字の表記をそのままアルファベットに置き換えると「Krongsa」のようになる。「Kro」はゾンカ口語では「Tro(ト)」のように発音されるためローマ字化の際にそのように変えているわけだ。一方、「Tongsa」の方はおそらくゾンカ文字の綴りとは無関係に英語話者が聞き取り綴りを決めたと思われる。たとえばJ.C.ホワイトのような初期の英文資料は「Tongsa」としている。言い換えれば、「Tongsa」は英語表記、「Trongsa」はゾンカのローマ字表記ということになる。

実際にはゾンカ文字による表記にも、DDCによって標準化の努力がなされているとはいえ、いまだに一定の揺れがあり、さらにチベット語からの借入語などの問題がある。さらに綴りそのものが歴史的な経緯によって決まっており、現在の発音と必ずしも一致しないわけだから、実はブータン人のゾンカ話者にとっても、ゾンカ文字表記、ローマ字化ゾンカ表記を正しく扱うのはかなり難しい、というより、一部の専門家以外には無理、というのが実状である。その証拠に、現在まで出ている出版物で、英語とローマ字化ゾンカを併記したもの、ゾンカと英語を併記したものはそれなりにあるが、両方をまとまった数併記したものは私の知る限り“A New Method English – Dzongkha Dictionary”しかないし、これは「辞書」と銘打っているが、実際には名詞中心の語彙集であって狭義の「辞書」とは言えない。

ゾンカ文字を扱う場合には技術的な問題も出てくる。ゾンカ文字はUnicode化されているため、ゾンカ文字だけの文書を扱うことは難しくない。また、これに英語が加わってもそれほど問題無い。これは日本語のコンピュータ処理を考えればわかるだろう。ところが、ゾンカと英語と日本語を一度に扱うとなるといろいろ問題が出てくる。

つまり、日本語ゾンカ辞書を編集・出版しようとすると、まず文字コードレベルの多言語処理(それも日本語とゾンカという、それぞれ欧米語とは違った組版ルールをもった言語)が要求され、またデータ入力や校正といった作業も誰でもできるということにはならない。早い話が伊東辞書をそのままDTP化するのは技術的なハードルが高く、結果的に非常にコストがかかってしまうことが予想される。

前置きが長くなったが、一方の伊東さんはどう考えているかというと、出版できればそりゃうれしいが、中身がここまでできているといっても編集作業が大変なのはわかるし、この辞書もまだ未完成の部分も多く、このまますぐ人前に出せるようなものではないので、あくまで個人的な資料として秘蔵しておけばそれでいい、といった話だった。

そこで2つのことを考えた。1つは、ゾンカ文字の簡単な入力方法やスペルチェックの方法をデジタル文書処理の技法で開発すれば、辞書編纂の作業の効率化、省力化が図れるではないかということ、もう1つは逆に、あえてそういった手間を掛けずに、手書きのまま(つまり画像として)電子化しまっても、携帯性などの面でメリットがあるのではないかということだ。前者はその後思いがけないほど進展があったので別に紹介するつもりなので後者についてもう少し説明しよう。

伊東さんは、自分はゾンカの専門家ではなく、この辞書もいろいろな参考資料から寄せ集めただけだという。そのため、不完全なところが多く、また、誤りも多いという。それはその通りかもしれないが、有用性というのは用途とコスト、携帯性といった使いやすさで決まるわけで、たとえば、このままコピーして2000円(手間とコストを考えると、実費そんなもんか?)で売ろうとしたら欲しい人ほとんどいないかもしれないが、PDF化され、パソコン画面はもちろんスマホやタブレットでも読めて500円なら、欲しい人その100倍いるのでは? ということだ。で、そのときには「誰か若い人にやらせりゃいいじゃん」と思っていたのだが、紆余曲折あって、結局自分でやってしまった。それがこれだ。

Japanese Dzongkha dictionary Itho Akiyo

伊東昭世さん執筆の日本語ゾンカ辞書のPDF版

原板はB4だが、手書きなので文字サイズがそれなりに大きく、また伊東さんの字が驚くほど可読性が高いので、PDF化した場合、iPhoneの画面でも1行全体が入る状態で読める(ただし横置き状態。ページ全体表示で読むのは流石に無理)。写真は7インチタブレットで表示しているが、これだと私のような老眼がかなりやばい状態の人間でもOKだ。もちろん、スマートフォンやタブレットの画面なら、簡単に指先で拡大表示できるので、文字サイズはあまり問題にならない。一応、PDFの「しおり」機能を使って五十音のインデックスまでは付けたが、iPhone用のAcrobat Readerはしおり機能に対応していないため使えない。Androidなら問題無い。ただし、スマホやタブレットの場合、スクロールやページ移動が手軽かつ高速にできるので、実際にはインデックスはあまり必要ないというのが実際に使ってみた結果の感想だ。

なお、PDF化しているため、プリントアウトもそのままできる。私は自動両面印刷ができるプリンタをもっているので、早速それでA4表裏に印刷して表紙をつけてみた。

伊東の日本語ゾンカ辞書

『伊東の日本語ゾンカ辞書』A4冊子版

可読性と携帯性のバランスからいうとB5の方がよいかもしれない。ただ、そうなると両面印刷字に奇数ページと偶数ページでノドと小口のマージンを変えた方がいい(クリップ留めであればなおさら)のだが、それをプリンタの機能でやるか、PDF自体をいじって画面表示用と印刷出力用を作った方がいいかを決めかねていたので、テストということで単純に70%縮小の両面印刷としている。

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