さて、ここまでの話をまとめると次のことが言えるのではないか。まず、カギュ派はその成立の非常に早い時点からインドとの経済的関係をもち、またその中継地であるブムタン、パロ(チュンビ渓谷)との深い関係をもっていたということ、そして、カギュ派の布教は仏教伝来以前から存在した、そういった経済的な関係を基盤に進められたであろうということだ。また、この歴史的展開は、この地域に影響力をもち、また、経済的にも早くからインド交易を重視していたと思われる二つの有力家系、つまりギャ氏とニョ氏の、あるときは協力し、あるときは競合する関係の上に成立し、後年それはディグン派(ラ派)、ドゥク派という二つの支派の関係の上にも投影されていたように見える。最後に、この11~13世紀の「交易路争奪戦」では、遊牧民集団が重要な役割を担ったであろうということである。
その後、14~17世紀の「檀家争奪戦」や、15世紀におけるペマ・リンパの国際的な活躍も、こういった交易経済の展開を背景にしていたと思われるし、その後のドゥク派政権や、ワンチュク王朝の成立においても、チベット経済圏全体における対インド交易利権は重要なファクターになった。しかし、基本的に「法灯史」であるチベット式歴史研究は、その観点を欠いており、それは現在のブータンの公的歴史教育・歴史認識についても同じことが言える。なぜなら、その宗教的視点からは、こういった経済活動は直接的には評価されず、むしろ隠蔽されるものだからである。
史実研究が進まないもうひとつの理由は、貿易史が国境問題、外交関係などのからみで、現時点においても微妙な問題をはらむ側面があるという点である。たとえば、本稿で触れた内容のうちいくつかは、中ブ国境紛争にからんで一般に理解されている歴史と食い違う部分があるはずだ。ブータンの一国史を考える上でも、タワン、ツォナ、ロダク、チュンビ渓谷などの隣接地域の地域史を参照することが必要なのは明らかだが、実は従来の歴史研究ではそのことがほとんど手をつけられていない。これには現地調査が難しいなどの現実的な制約があったのも確かだが、政治的な理由から、研究者であってもあえて言明を避けていた部分が大きいと感じる。
史実が霧の中に閉ざされがちなのには、この地域の地理情報が十分に整理されていないこともあるだろう。これまで述べてきたように、教団の発展は拠点寺院の配置やその国際交易路との関係と深く依存しているように思われる。伝統的な文献史学のアプローチでは、そういった距離感覚や社会経済学的な関係性がつかみにくい。筆者は当初、農業生産力に着目して、それが高いとは言えないブムタン地方で、なぜパロに匹敵するほど早く仏教文化の展開があり、また政治的に大きな影響力をもったのかが説明できなかった。しかし、チベットにおけるカギュ派発祥の地ともいえるドボルンとジャカルの間の旅程は4~5日、いいかえればプナカまでよりずっと近いということを知ったことによって、その印象は大きく変わった。交易路と寺院、教派の関係は、もう少し研究されるべきではないだろうか。