カギュ派と対インド貿易

さて、話はいったんマルパ・ローツァワに戻る。マルパが若くしてインドに修行に出かけたとき、裕福な家系の息子、後に「ニョ氏の翻訳官」として知られるヨンテン・ダクパと同行したという。彼はマルパほど熱心に勉強しなかったので、帰国の折りにはかなりの学識の差がつき、そのことを快く思わなかったため、帰途の間にマルパを陥れようとするが逆にやり込められてしまうという、というのがカギュ派に伝わる伝承である。

カルマ・プンツォによれば、ツァン地方南部からパロのサツァム・チョルテンまでの土地は、チソン・デツェン王によって、その重臣であったゴェ氏の大臣に与えられ、後にそれがヨンテン・ダクパによって相続された。つまり、11~12世紀頃、チュンビ渓谷からパロまではニョ氏、ギャ氏によって支配されていた。ヨンテン・ダクパの曾孫であると同時に、カギュ派の支派パグモドゥ派ディグン派(1179~)の高弟であるゲルワ・ラナンパ(1164-1224)が、この地域の支配権を握るじゅうぶんな歴史的背景があったわけだ。

このラナンパとその後継者が現在のブータン領内に築いた法灯が、ラマ五派の筆頭、ラ派である。ラナンパは本国のディグン寺に何度も大規模な貢献を行ったと記録される。ロポン・ペマラの『ブータン史』では、これがブータン西部の植民地化であり、その重税による抑圧が人心の離反を招き、ひいてはドゥク派カギュの勢力拡大に結びついたとしており、ソナム・クェンガもその見解を踏襲している。しかし、管見によれば、それはラ派をドゥク派への抵抗勢力として描く、パジョ・ドゥゴム・シクポの伝記の史観のみをよりどころとしているのであって、やや客観性に欠けるように思える。この伝記がマイケル・アリスなどが指摘するように偽書の可能性が高いことを考慮すると、さらにその疑いが強い。

“The Treasury of Lives”のラナンパの解説によれば、彼はその意志をもちながらも、生涯インドには行かなかった。しかし、彼の経済力が(ある意味その「家業」であろう)インド交易にあったことは明らかと思われる。ラナンパは1216年に後にドゥク派に接収され、タシチョ・ゾンと改名されることになるドゴェン・ゾンをティンプーに築いたとされる。一方、その翌年に師の入寂の際に催された集会に5万人以上の信者を集めて法要を行っている。ラナンパは黒砂糖菓子を「引き出物」にする方法で当時有名だったが、この法要でも配られている。当時の砂糖は貴重品なので、これは彼の資力を示すとともに、対インド交易によってそれが支えられていたことを示すと思われる。

現在のブータン領東南部にも一部黒糖の産地があるが、この時点ではカギュ派の勢力範囲外と思われる。時代が下るに従ってその支配の性格が変わったにしても、少なくともラナンパ本人の時代にラ派、あるいはニョ氏のブータン経営の目的は、そこから直接の税収を上げることよりも、対インド交易の利権の確保と、その交易路の安定維持にあったことに重点が置かれていたであろうことは明らかなように思われる。ちなみに、ペマ・リンパはソムタン・チョジェ経由で、このニョ氏の血統も受け継いでいる。

Bookmark the permalink.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です