カギュ派初期の高僧とブータン

さて、再びカギュ派の歴史に戻ろう。マルパの出身地がチュキェルであるにせよ、ドボルンであるにせよ、彼は「国際貿易都市」で育ったことになり、しかも、そこで商われていた荷の一部はギャ、つまりインド産である。幼少時から語学に興味があり*[01] 、インドに留学して、翻訳官(ローツァワ)として大成したのも、ある意味当然だといえよう。自伝に書いてあろうがなかろうが、彼が貿易の実務や、それを通じて得たブータン事情に精通していたのは間違いないと思われる。またそれは――本人の学問的興味がそういう方向に向かなかったとしても――弟子であるミラレパにも継承されたはずだ。

ミラレパは、チベットの他の地域同様――カルマ・プンツォによればそれ以上に――ブータンでも高名な存在である。しかし、ミラレパ創建の寺や、彼の伝承に結びついた地名などは知られていない。既に述べたように、ミラレパが師のためにセカル・グトク・ゴンパを建てた場所は、ペマ・リンパによればケンパジョンの4つの入り口の一つである。ミラレパ自身の呪術者的、また隠遁者的性格もケンパジョンの思想的伝統と重なりあいそうなことを考えると、このことはむしろ意外に思われる。

しかし、ミラレパがタクツァンを含む現在のブータン領内にしばしばでかけていたであろうことは確かだ。というのは、詩作で有名な彼の作品の中に、ブータンで作ったと思われるものが含まれているからである。ミラレパとブータン(ロモン・カシ)の関係についてはまだ不勉強だが、一つの仮説として、彼はむしろ――その出身地からいっても――チュンビ渓谷を経由するルート、もしくはネパール経由のルートとつながりがあったのではないかと想像する。そもそも、彼は若ころ、父と一緒にネパール交易で稼いでいた。

一方、マルパの四大弟子(kachen Zhi:「四柱」)の一人、ゴトェン・チョク・ドルジ(Ngogton Choeku Dorji:1036–1102)はマイケル・アリスによればタン谷にランモリン・ラカン(Glang-mo-gling)を建立している。『ブータン・ドゥク派史』も彼を現在のブータン領内で初めてカギュ派を布教した人物としている。なお、ILCSのBhutan Cultural Atlasによれば、ゴトェン・チョク・ドルジは、ランモリンの他にチョコルのタク・ラカン*[02] も建てている。カギュ派が成立直後にすでにブータン領内に拠点をもっていたこと、初期の2寺の所在地がブムタンであり、両方とも遊牧民の集落*[03] 、もしくはそれに隣接する地域であるということが興味深い。

四大弟子のもう一人トゥルトン・ワンギ・ドルジ(Tshurton Wangi Dorje :楚敦旺給多傑/措顿旺布)は、中国資料*[04] によれば、彼は1230年にセで布教を開始し、当時交易のルールを巡って争いの絶えなかったブータン人(ロモン人)、チベット人の間を調停して両族の遊行や生活条件の改善に寄与した。しかし、交易地をブータン側の仓巴とするかチベット側の隆东とするか、といった点で双方譲らず、最終的に代表による決闘で決着をつけることになる。その結果、隆东が以後800年にわたってブータン~チベット交易の場所となったという。この伝承のいう仓巴、隆东がそれぞれモンラ・カルチェ・ラの両側の集落、LongdoとTshampaを指しているのは明らかだろう。

ツァンパはチョコル・チュ上流部の大きな合流点にあり、現在ブータン軍の基地が設置されていることからもわかる通り交通の要衝である。17世紀成立とされるブータンの史書、『ギャル・リク rGyal-rigs』によれば、ランダルマの暗殺で知られる、ラルン・ペルギェ・ドルジの6人の兄弟(=ドルジ6兄弟)は後難を恐れ、チベットを離れて南のロモン国に至った。なお、ラルン・ペルギェ・ドルジの「ラルン」は、彼がロダクのラルン寺周辺の出身であることを示す*[05]。兄弟の1人、トプテン・ラワ・ドルジはタンに居を定め、この地のポンポの祖となった。ヤンツェル・テウ・ドルジはチョコルに落ち着き、その家系は中部ブータン最大の実力者、チョコル・ポンポ(デパ)になる。ガルワ・ケウ・ドルジは牧畜と交易を行うため、チョコル・チュ上流のチベット国境付近を治め、この地の遊牧民、すなわちツァンパの長となった。

ランダルマ暗殺は9世紀のこととされ、カギュ派の成立より約200年前のことになる。この伝承の年代設定をそのまま信じるのは難しいが、既に紹介してきた11~13世紀にかけてのこの地域の状況を示すいくつかのエピソードと、ある程度の対応が見られるだろう。1方、この3人については別系統の伝承もある。

ブータンのガン・ドゥン(Ngang Dung)~ボンビ・チョジェ*[06] の家系に連なる2代ガンテ・トゥルク、テンジン・レクパ・ドンドゥプと、10代デシ、ミファム・ワンポの2人の伝記で述べられている一族の系譜によれば、この3人は(ラルン・ペルギェ・ドルジの兄弟ではなく)、チベット王チソン・デツェンの子孫である。チソン・デツェンは庶子のデチェン・ドンドゥプにロダクの地を領地として与え、以後、この地は「ラヤ王*[07] 」の治める半独立領となった。その後胤である3王子のうち、長男のラワ・ドルジがツァンパに、次男のケウ・ドルジがガンおよびドゥル*[08] に、末子のテウ・ドルジがタンに居を構え、それぞれの地の支配者階級の祖となったという。

ガン系の伝承では、始祖であるチソン・デツェン王と3王子の間の時間が不明、言い換えれば3王子のブータン移住年代が不明確であるため、これを11~12世紀のこととしても矛盾はない。また、ギャル・リクの伝承では3王子はロダクからではなく、パロから来たことになっており*[09]、地理的にかなり不自然な設定となっている。なお、チョコル・ポンポは17世紀中頃のドゥク派のブータン統一の最大の抵抗勢力となったが、その居城であるダパム・ゾンが落城し、ロダクへ逃走したとされる。現在、ガン・ラカンの近くの丘の上にある廃墟がその古戦場だとされる。

先述したように、ツァンパはブータン・チベット交易の国境~ジャカル(ブムタン中心部)間の最大の中継点であったと考えられる。このルート(ロダク街道)は、簡単に言えば、ジャカル(チャカル)~ガン~ツァンパ~モンラ・カチュン・ラ~ロンド~セ(ドボルン)~タワ・ゾン(ラルン)という経路になる。チョコル・チュ流域の遊牧民は、冬期には下流のガン・ラカン付近の定住集落で過ごすため、ツァンパ付近には周年集落はない。これはチベット側のロンドも同じような状況だっただろう。そういった場所がなぜ王統を語る史書でその由来を語られねばならないか、というところに、遊牧民・交易・教団組織の深い関係がうかがえはしないだろうか。なお、マイケル・アリスは、ペマ・リンパの母はこのツァンパの一族の出身だとしている。


  1. “The Treasury of Lives”http://www.treasuryoflives.org/biographies/view/Marpa-Chokyi-Lodro/4354 []
  2. Bhutan Cultural AtlasはTakarとしている。タクだと「虎」だが、Takarの根拠不明。なお、タク・ラカンもゴトェン・チョク・ドルジ創建とする資料は他にないようだ []
  3. タンは必ずしも全体が遊牧民の居住地ではないが、ラモリンは、ペマ・リンパの出生地はもより、ウゲン・チョリンよりずっと上流部で、むしろトワダ・ゴンパに近い。タンビも農耕地帯であるが、ガン・ラカン周辺の民族分布を見ても、むしろ農耕地帯と遊牧地帯の境界地域で、遊牧民の越冬地だったのではないかと想像できる []
  4. 「西藏桑喀古托:圣地秘境的千年古寺」、前出。出典不明だが、おそらくなんらかの古文書が存在すると思われる。ちなみに、ブータン側の歴史資料にはこういったチベット側の記録、伝承はほとんど取り上げら得ていない。 []
  5. “The Treasury of Lives”より、Lhalung Pelgyi Dorje (lha lung dpal gyi rdo rje) was born in Dronto Gungmoche (‘brom stod gung mo che), east of Lhasa on north bank of Kyichu (skyid chu). Lhalung, his clan name, derives from the name of the place with which the clan was associated. He is also reported to have been born in Lhodrak, at a place called Lhalung. http://www.treasuryoflives.org/biographies/view/Lhalung-Pelgyi-Dorje/9618 []
  6. チョジェ:Choejeは本来は宗教的な権威の家系。名家ではあっても、仏教的権威ではないドゥンの末裔がボンビ・ドゥンではなく、チョジェと呼ばれるのは、この一族のラダルLhadarがペマ・リンパの息子のトゥクセ・ダワ・ゲルツェンの弟子となり、彼の指示でトンサ北部に移住したことによると思われる。私見では、中部のドゥンの末裔であるこのボンビ家と、ペマ・リンパの末裔であるガンテ・トゥルクの存在が、トンサがドゥク派の東部経営の拠点として重要だった理由のひとつではないかと考えられる。なお、筆者が2013年に当代のドゥル・ドゥンにインタビューしたところ、これら各地の一族は20世紀中頃まで密接な通婚関係を結んでいた。 []
  7. “Dharma Raja of Layak”。現在のガサ県ラヤを容易に想像させる地名だが、カルマ・プンツォもマイケル・アリスもその点については触れていない。 []
  8. ドゥルにはガン・ドゥンの分家であるドゥル・ドゥンがいるので、その関係を説明する伝承と思われる。 []
  9. ギャル・リクの著者はこの部分で「彼らはパロの出身という説もあるが、実際にはチベットからパロ経由で来ただけ」とわざわざ説明している。しかし、3人がロダクから来たならもちろん、ラサから来たにしても、少なくとも1人は最終的にチベット、つまりロダクとの国境に定住することになったのに、わざわざパロ周りというのは、かなり無理がある。 []

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