ロダク県のカギュ派寺院とブータン

ジャカルの病院の隣にあるセ・ラカンは、正式名称がSekhar Dratshangだが、もともと西蔵自治区ロダク県にあるSerkhar Gutok Goenpaにちなむ寺である。細かい事情は不明だが、その建築時期が1963年であることから時代背景は想像がつく。ロダク県のSekhar Gutok Goenpa(桑喀古托寺:སྲས་མཁར་དགུ་ཐོག་དགོན་)*[01] は伝承によれば11世紀にマルパ・ローツァワことマルパ・チェキ・ロデ(1012-1096)の命によって弟子のミラレパが建てた寺で、その際に、何度も理不尽なやり直しを命じるなど、無理難題が課せられたという逸話が有名である*[02]

この手の話についてブータンの資料では「南チベットにある同名の寺にちなんで……」と説明することが多い。しかし、「南チベット」はブータンより広く、ほとんど説明になっていない。実は、セカル・グトク・ゴンパはブータン国境から直線で13kmという距離、別の言い方をすれば、交易路が国境の峠(モンラ・カチェン・ラ)を越えて降りた谷にある。事実上「国境の町」にあるといってほぼ差し支えない。

カギュ派の祖師の一人として名高いマルパは、この寺があるセ(セカルは直訳すれば「セ城」*[03] の集落とモンラ・カルチェン・ラの間にある、チュキェル(Chukyer、曲吉)という村の豪農の出身である。父はマルパ・ワンチュク・オゼル(mar pa dbang phyug ‘odzer)、母はギャモ・オゼル(rgya mo ‘od zer)。マルパの出身地については、ドボルン(Dobolung、卓窩隆、Gro-bo-Lung)のペサル(Pesar、牌薩)とする資料もある。

「ドボルンのペサル」とは、セの集落(谷底の川沿いにあり、寺院も川に面している)を見下ろす山の斜面、つまり、インドから帰国後、マルパが布教活動の根拠地としたドボルン・ゴンパがあるあたりだろう。実際はチュキェルで生まれたが、後年活動の中心となったドボルンと混同されているのか、あるいは逆に、ドボルン出身だが、当時はチュキェルの方が地域の中心地だったのでこのように説明されるのか、といった事情はよくわからない。マイケル・アリスはペマ・リンパの著書でケンパジョンの北の入り口として挙げられるドボルンに「of course, the home of Mar-pa」という注釈を入れているが*[04] 、この「ホーム」は出身地とも、布教ともとれる。いずれにせよ、チュキェル、セ、ドボルンはお互い数キロしか離れておらず、むしろ1つの地域の地区名と考えれば、その細かい違いにあまり意味はないだろう。

ドボルン・ゴンパはクリ・チュの上流部に沿って東西に走るモンラ・カチェン・ラ~ロダク・トワ・ゾン(ロダク県の行政府)間の隊商路(ロダク街道)から南側、つまりブータン側に少し入った斜面にある。分水嶺を越えた反対側斜面はブータンである。古街道の位置を確認すると、クリ・チュ沿いのルート*[05] とは別に、ここから高原地帯を抜けてムグに向かい、シンゲ・ゾン~ロダクの街道に合流するルートがあったようだ。ブータンでは、基本的に隊商道である古街道は、谷沿いルートより飼い葉を確保しやすい尾根沿いルートの方が好まれる傾向がある。これはチベット全般の傾向とは異なると思われるが、ことこの地域、つまりブータンと自然環境が近い国境付記では同じことが言えるだろう。つまり、ドボルン・ゴンパは表街道と裏街道の分岐点にある。

このことは別資料でも裏付けできる。1905年にシッキムのポリティカル・オフィサー、J.C.ホワイトがブータン経由で、シンゲ・ゾン*[06] ~ラカン・ゾン~ロダク~ギャンツェというルートの記録を残しているが、ムグで「ここから分岐した道はモンラ・カルチェン・ラを経てブータンに至る」と証言している。ムグはクリ・チュの合流点、あるいは屈曲部より南、つまりブータン側なので、もし街道が川沿いだとすると、この記述は不自然である。距離的には不利になるが、ドボルン~ムグ~シンゲ~ロダクという山越えルートの方がメインルートだったと考えると説明が付くが、どちらが「表」だったのかはなお検討の余地がある。

同じジャカルにあるもっと有名な「ロダク・カルチュ・ダツァン」、つまり「ナムケ・ニンポの寺」も、やはりシンゲ・ゾン~ロダク・ゾン間の国境の峠のチベット側にある寺の「分院」である。国際交易ルートと、これらの重要寺院の関係は非常に深い。ただし、こちらはニンマ派である。

 

 


  1. 現状については「西藏桑喀古托:圣地秘境的千年古寺」http://travel.sina.com.cn/china/2011-11-03/1155164365.shtml参照 []
  2. 従って本来はカギュ派の寺だが、現在はゲルク派の寺になっている。「原为噶举派寺院,后改宗格鲁派」http://www.xizang.gov.cn/jdfb/47469.jhtml []
  3. “Khar”はブータンにおいてはドゥク派、あるいはラ派が現在のゾンに近い形式の「城塞」を築くようになったより以前の小王国の王城を指すとされ、各地に「~カル」という地名が残っている。 []
  4. “Bhutan: The Early History of a Himalayan Kingdom”, 1979, P.64 []
  5. ブータン側の認識では、このガンカル・プンスム東面に源流をもつ川をクリ・チュの本流(水源)としていると思われる。中国名は「熊川」。 []
  6. 以下もちろん、ブータンの「シンゲ・ゾン」のことを指しているが、チベット側にも「シンゲ・ゾン」という地名があり、現在の行政区画にも「生格区」がある。 []

Bookmark the permalink.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です