シャプドゥンの入国ルート

正確な日付は不明だが、1616年のある日、ガワン・ナムゲルはラルン寺を離れ、南へ向かった。ダショー・サンゲ・ドルジによれば、そこから2日で国境のヒマラヤ山脈までたどり着いたが、あいにくの吹雪で足止めを余儀なくされたという。
国境までの足取りと、国境を越えた後のルートにはいくつか異説があるようだが、この雪の峠越えのエピソードについては定説がある。

彼はワケ・ラを越えてきた

―― ヨンテン・ダゲ “History of the Drukpa Kagyud School in Bhutan”

ラヤを経由してLungmocheに着いた。

―― ロポン・ペマラ “History of Bhutan”

一行は国境まで2日で到達したが、吹雪のため、その手前の洞窟で数日の停滞を余儀なくされた。口伝によれば、キツネが峠越えの道を示すまでそれが続いたのである。

―― カルマ・プンツォ “History of Bhutan”

国境の山のすぐ手前にゴムダプ Gomdraphuという洞窟がある。シャプドゥン・リンポチエは吹雪のため、この洞窟に数日間滞在しなくてはならなかった。ある朝、シャプドゥンはキツネの鳴き声を聞き、その後について峠を越えることができた。そのため、それまでツァ・ラ(Tsha La)と呼ばれていたこの峠は、キツネが導く峠、すなわちワケ・ラ(Wakela)と呼ばれるようになった。

―― ダショー・サンゲ・ドルジ “The Biography of Zhabdrung Ngawang Namgyel”(抄訳)

以下、特に記述なし

―― C.T.ドルジ “History of Bhutan based on Buddhism”
―― ソナム・クェンガ “Polity, Kingship and Democracy”

ゴムダは瞑想修行のために隠る洞窟を指す一般的な表現で、「プ」も洞窟を指すので、これが固有名詞かどうかははっきりしない。パロのホテル・ウマの上にもゴムダという聖地がある。パジョ・ドゥゴム・シクポの「12の聖地」の中の「4つの岸壁(「ダ」)の中にもゴムダが含まれており、このパロのゴムダをそれだとされているようだ。ダショー・サンゲ・ドルジは特定の実在する(現存する)洞窟としている。

キャラバンの場合、1日の移動距離は20km前後なので、シャプドゥンの一行は(もし2日で国境に到達したとすると)その倍以上の速度である。まったく手ぶらというわけではなく、寺宝などを運んでいるので、途中までは騎乗だった可能性もある。

ワケ・ラはラヤの北東20kmほどの峠だと思われる。この峠はラヤ村の住人が交易に使う峠と思われ、衛星写真を見ると中国側は峠のすぐ下まで既に自動車道路が来ている。ブータンとチベットの間の峠としてはあまりメジャーではないが、ラルン寺から直線で約70kmであり、おそらく最短距離の位置にある峠である。パーリ経由のトモ・ラ、ロダック経由のモンラ・カルチェン・ラのようなメジャーなルートをとらなかったのは、もちろん隠密の逃避行なので表街道を避けたこともあるだろうが、ガサ地方の信徒と連絡をとった上での行動だったので、そこを一直線に目指したとも言える。

ダショー・サンゲ・ドルジの説明にあるように、この峠は本来別の名前だったのが、このときのエピソードにちなんでワケ・ラとなったというのが定説になっている。ゾンカではキツネは「アーム(『旅の指さし会話帳』,西田)」であり、『DDCの英語-ゾンカ辞書』でも「འམོ།(アモ)」となっている。なぜ、「ワ」がキツネなのか、「ケ」あるいは「ゲ」は何を意味するのかは不明である。また、ここでキツネが出てくるのもやや唐突で、本来ならカラスが道案内するところだろう。もっとも、だからこそ、このエピソードがなんらかの史実をベースにしている可能性が高いとも言える。

ワケ・ラから降りてくる途中で、シャプドゥンはオプツォ家の阿闍梨たち支持者に迎えられている。ラヤから来ている信徒もいるが、オプツォ家は現在のガサ・ゾン付近にあり、ワケ・ラまでは急いでも2日はかかる。途中悪天候の足止めがあったとはいえ、シャプドゥンがラルン寺を離れるのと同時に出発しないと本来は国境での出迎えに間に合わない。信仰的な文脈では「夢のお告げがあった」ということになろうが、史実だとするとシャプドゥンの出奔の期日はあらかじめオプツォ家に伝えられていた可能性が高い。

なお、ブータンの北の国境線については、かつてクーラカンリまで延長した地図が広く使われていた。しかし、正式な国境線(ブータン主張国境線)は1989年から現在と同じものを採用しているワケ・ラはこの正式な国境線上にある。ダショー・サンゲ・ドルジの「シャブドゥン伝」は1999年の出版であるが、文章でも地図でもワケ・ラを国境としており、当時から政府関係者が現在の国境線を正式なものと認識していたことがわかる。

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2 Responses to シャプドゥンの入国ルート

  1. takahashi says:

    ブータン/チベット国境越えには古来いろいろな記録があるが、ほとんどがパーリ経由のテモ・ラ越えパロか、ロダク経由のモンラ・チャチュン・ラ越えのブムタンで、ワケ・ラを越えた有名人の記録はシャプドゥン以外知らなかったわけですが、1736年3月8日に10代デシのミパム・ワンポがこっそり「短期亡命?」した際のルートはワケラ越えだったとカルマ・プンツォが書いていた。

    プナカ・ゾンから人目につかないように(深夜こっそり抜け出した)ということなので、確かにモ・チュをそのまま遡ってというのは合理的な選択。

    なお、別記事で書いたが、ワケ・ラが国境だというのが常識なら、旧ブータン地図の国境線はあきらかにおかしかったわけで、地理や古文書に詳しい人は、あの国境線をそのまま信じてはいなかったはずである。

  2. takahashi says:

    ミパム・ワンポは途中、ラルンRalungゴンパで1泊だけして、ナタンまで行ったところでラサ駐在中の親族に出迎えられている。

    シャプドゥンはラルンから国境まで2日で到達したされているから、ミパム・ワンポも同じような行程だろう。そしてラルンからナタンまでも2日行程だろう。なのにもうラサには伝わっているわけで、中世チベットの早馬恐るべし。

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