GLOFとオプツォ家

先日の「第3回日本ブータン研究会」、いろいろ勉強になったが、ブータンの山岳地帯についての帝京平成大学の小森次郎さんの情報は、旅行者が足を踏み入れるのが難しい地域ということもあって刺激を受けた。物事を裏からも眺めてみることは重要である。その点、小森さんはブータン北方の山をブータン側からだけでなく、チベット側からも見たことがあるという、非常に珍しい経験をもっている。

小森さんには以前、ブムタン北部の遊牧民の様子について電話で問い合わせたことがあり、今回の私の北部国境線に関する発表をまとめる上でも非常に参考になった。小森さんはブータンの氷河湖決壊洪水(GLOF)の研究者である。今回の発表でも「地元の生活に還元できる研究」といったことを強調されていたが、この点について彼らのアプローチはもっと評価されていいと思う。発表の中で紹介されていたクエンセルの執筆記事、私もほぼリアルタイムで読んでいて感銘を受けた。そもそも、クエンセルには「解説記事」というものがほとんどない。基本的に政府発表と「誰かのコメント」に感想を付け加えただけ、というのが基本スタイルで、情報を編集した上でわかりやすく伝える工夫をするという努力に欠けている。小森さんの連載は、そんなクエンセル記事の中で異色と言える本物の解説記事だった。もう一つ重要なのは、それが災害への注意喚起という社会的な意味をもつ記事であると同時に、教育的な要素のある科学記事だったということだ。はっきり言って、クエンセルはこの点もまるでダメである。

本来私は「地球温暖化」は「幸福の国」と同じくらい胡散臭いと思っているので、実は小森さんの記事も眉唾で読み始めたのだが、そこに、ブータンの近代教育に不足していると思われる「センス・オブ・ワンダー」の感覚があり、しかもそれがブータン人にとっても身近な「氷河」を切り口にしているということで、読んでいるうちに「参りました」となったわけだ。

研究会の発表では語られてなかったと思うが、彼らのプロジェクトは研究成果を積極的に、しかも世界に向けて公開しているという点でも異色といっていい。私はこの1年でたぶん100本以上、インターネットで公開されているブータンに関する英語の論文、レポートを読んだが、その中で役に立った、あるいは海外の研究者に引用されている日本人の論文は彼らのグループのもの以外には指折り(ブータン式ではなく、日本式、しかも片手)数えるほどである*[01] 。ご承知のとおり、ブータンは学術研究が難しい国だが、その条件はどの国も同じで、むしろ日本は有利な立場にあるとさえいる。それでこのありさまというのは、いかがなものかと思うわけだが、少なくとも彼らのグループは研究成果の発表だけではなくて、研究成果そのものをリソースとして公開しており、アプローチそのものが新しい*[02] 。彼らが進んでいるんじゃなくて、単に日本のアカデミズムが遅れてるだけじゃないかとも思いますが……。

話を小森さんに戻そう。いろいろおもしろい話があったのだが、個人的に衝撃的だったのはモ・チュからルナナ方面へのショートカット・ルートの踏破を計画しているという話だった。いやぁ、これは全然思いつかなかった。「ルナナの人がタバコ買いに行くのはプナカか中国か」という話が当日も出たのだが、その前提には(少なくとも私の頭の中では)、一見、ルナナからだとポ・チュ沿いにプナカに下りてくるのが近そうだが、ポ・チュ中/上流部は村落が少なく森も深いので、スノーマントレックのルートでいったんタクチの下まで出て、モ・チュ沿いに下りてくるだろう、という思い込みがあった。しかし、それは浅はかだった。つい、「日本の常識」で、標高の低い、川筋沿いにルートがあるように思い込んでいたが、小森さんも言ってた通り、ブータンはむしろ標高4,000メートル以上の氷河地形の方が歩きやすいし、馬やヤクの飼い葉の確保という意味でもその方が都合がいい。そりゃ確かに Shango Rong Chhu の源流部を経由すりゃ、そっちの方が楽そうだわ。

小森さんの新ルート予想

小森さんの新ルート予想

というわけで、小森ルートを予想してみた。長年の経験?で「遊牧民が選択しそうなルート」が地形見ただけでわかるようになってきた気がするんですがどうでしょう。Google Earthの衛星写真ではまだ吊り橋しかないが、農業省の資料によると、すでにダチュカから対岸に渡り、グムガン村まで続く農道が既に開通しているようだ。これが使えると標高差500メートルくらい稼げるので、それほど無茶な上りじゃない気がする。

このルートのおもしろい点は、もちろん「ルナナに行くのにラヤ(タクチ)経由しなくてもいい」ところだ。ガサは温泉あるし、自動車道が手前まで到達しているが、ガサ~ラヤ間は景色がぱっとしない割にはアップダウンが厳しい、正直辛いルートである。また、昔みたいにプナカの近くから歩いて行くなら、それはそれで亜熱帯から高山まで、ブータンならではの自然バリエーションを全部体験できるというおもしろさがあったのだが、ガサまで自動車道ができてしまったことで、逆にそこから先が限りなく「ただのアプローチ」になってしまったような気がする*[03] 。私はその辛い「アプローチ」を既に3回歩いているので、流石に「もういいや」という気分になる。直接ルナナに入れるなら、なんと素晴らしい……。しかも、このルートなら、歩き始めて2日目で4,000メートルを越えてあとはずっと氷河地形、てな感じである。

しかし、おそらくそれこそがこのルートが(道はそれなりに良さそうなのに)外国人トレッカー用のルートとして利用されてこなかった理由だろう。ブータンでも標高の低いプナカから出発して翌日には4,000メートル、では、高度馴化が厳しすぎる。これじゃ、小森さんより先にガイドがへばりそうだ。うーむ。

このルートが興味深い理由はもう一つある。モ・チュの下流域は、プナカ~ガサのルートのおかげで西岸についてはある程度外国人にも知られているが、東岸はまったく未知の世界だということだ。アマンのあるあたりまでは行くことがあっても、それより上流には誰も言ったことがないのではないか。この地域は歴史的にはゴェンと呼ばれていて、シャブドゥン来訪の際に重要な役割を果たしたと言われるオプツォ家の本拠地だ。オプツォ家はもともとガサ周辺を本拠にしていたが、シャブドゥン政権の確立後、南方に本拠を移したこともあって、現在のガサ周辺には、その時代の遺跡が残っている程度で当時の様子はわからなくなっている。オプツォ家は最終的にチュブのセウラ*[04] に移って現在に至るわけだが、その間の時代の地理的な位置がよくわからない。おそらく、このあたりではないかと考えていたのが、まさにグムガンのあたりなのである。たとえば、オプツォ家の南下が、ラヤからとルナナからのルートが合流するこの場所(グムガン)への配置で、かつてはゾンがあった、というような話なら、いろいろなことに説明がつく。

シャブドゥン来訪の際に、なぜラヤが重要な役割を果たしたとされているのか、そもそもブータンには他にもたくさんいる遊牧民集団の中で、なぜラヤ・リンシだけが特別扱いされたり、独特の民族衣装をもっているのか、といったあたりの謎を解くためにも、オプツォ家の歴史や、この地域の地勢の解明は重要なキーになるのではないかと考える。まぁ、現地に行ったところで何がわかるというわけでもないんだろうが、行かなきゃわからんことも多いわけで、ゴェンシャリ・ゲオのモ・チュ東岸は行って見たかった場所の1つなのだ。


  1. たとえば日本はブータンにいっぱい橋を作っており、実際それはブータン人の生活の改善に大変貢献し、感謝されているのだが、ブータンの橋に関する日本の論文とか記録とか、ググっても全然見当たらない。プナカの復元された伝統橋はドイツの会社がやったらしく、レポートが公開されており、「いちばん大変だったのが巨木探し」とか、歴史のこととか書いてあっておもしろい。JICAはいいかげん「ダショー・ニシオカ」を広告塔にするのを止めて、こういうのに力を入れた方がよいのでは []
  2. あと、アジア全体のウォーターシェッドのデータベースをどこかの研究室が公開してた。名前忘れてスミマセン []
  3. 欧米人のナチュラリストは、今でもタシタンから歩く人もいるそうだ。それはそれで頭が下がるが…… []
  4. 前々回のブータン勉強会で、ゾンを防衛施設と考えると、プナカ・ゾンの位置は変じゃないか、背後の丘陵地帯の上に建てた方が自然だろう、という話があったが、まさにその位置にあるのがセウラで、実際、国内平定の過程ではそのあたりで戦闘があったらしい。ちなみに、ゴェンのさらに下流の西岸はカビサになるわけで、このあたりにゾンがあったのでは、という話も前々回ブータン勉強会でしたが、平山さん提供資料のNo.12「カベ・ジャレグ・ゾン」がまさにそれだ、というように考えている。資料では「所在地:ティンプー県」になっているが、カブジサは歴史的には(モ・チュ流域ながら)ティンプーに属す、ということに気が付かないと見過ごすところだった。カビサはティンプー~プナカのもう一つのルート上にあり、「シャブドゥン八旗」と私が勝手に呼んでいるパザップの中でも有力集団で、シャブドゥン体制下で高官を輩出している。「シャブドゥン軍団」の中核である一方で、カビサはチベット系が政権の中枢を占めていたシャブドゥン政権の中で、「民族系」の最右翼に位置していたようで、それが原因と思われる激しい政争がオプツォ家との間に起きたことが知られている。カベ・ジャレグ・ゾンの建設者はネニン派となっており、このあたり、シャブドゥン政権初期のドゥク派直接支配地域と、ドゥク派についた地方勢力、他派支配地域のパワーバランスが興味深く、また、プナカ・ゾンの建設位置もそれらと無関係でないと考える。 []

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