メラ・サクテンの移住時期
文献資料が不十分なこと、また、それがゾンの火災などの影響で、ある時期のものがごっそり抜けていることがあること、文献そのものが僧侶が宗教的な目的で書かれたものが中心で「世俗の雑事」あるいは「紅旗征戎」にはそもそも関心がないため*[01] そこから客観的な史実を再構成することが難しいという根本的な弱みがある。また、これはブータンに限らず歴史資料一般に言えることだが、中央からの視点で周辺が描かれ、そもそも周辺と位置づけられた地域は極端に記述が少なくなるといったこともある。
その中で、実はメラ・サクテン地域は例外的に資料に恵まれているのである。17世紀末、現在のタワンからブータン領にかけての地域は、東部を国家体制に組み込もうとするドゥク派政権の東進と、カギュ派、ニンマ派など、比較的早くからヒマラヤ南麓に布教圏を確立した他派に出遅れたゲルク派の南進がぶつかり、大規模な武力衝突に発展している。そのため、そのいきさつを語る、同時期の史書『 ロギェ Lo-rgyus 』 がブータン側に存在するだけでなく、チベット側にも『ダライラマ5世伝記』などの文献資料が豊富なのだ。実際にロギュでは当時のメラの人たちがどのようにこの戦乱に関係したかがしばしば言及されている。これらの資料や、17世紀前半のシャブドゥン関係の資料を総合して、メラ・サクテン地域には少なくとも17世紀前半には現在の住民と文化的、遺伝的に連続する人たちが生活していたと仮定することは難しくない。それ以前になると、そういった客観的な考証は急に難しくなる。*[02]
テキストの中、つまりギャル・リグの作者ガワンがどういう年代を想定していたのかということであればある程度限定できる。ひとつはツォナの出発時期が「デパ・ヤプザンポ」の時代だったという記述だ。この人物については、それが実在の人物かどうかも含めてまだ調査していないため、残念ながらなにも言えない。しかし、ギャル・リグには、今回訳出していない後段において、バルケ(レルパ・トプチェン)の後継者ラワン・ダクパはツォナから連れてこられたチベット王族の子孫だとしている。この点に関してションガル系の伝承とウラ系の伝承は若干系譜が異なり、ションガル系の伝承ではあまり詳しく書かれていない*[03] が、いずれにせよこの系統の伝承がさかのぼるのはチベット王家のウセル(生年845年で、ランダルマの後に王位についている*[04] )まで、つまり9世紀と10世紀の境目あたりである。さらに細かい時代考証は「湖水魚蛇型」伝承の範囲だけでは収まらなくなるので、その考証は別稿で改めて行うとして、ここで結論だけ述べれば、この、すべてのドゥンの祖とされるラワン・ダクパがツォナから来た王家の末裔であるという伝承が史実に基づいているのなら、それが起きたのは14世紀中頃であるという説*[05] をここで採用していいと考える。
メラ・サクテンの移住(エグザイル?)の時期と、チベット王家の関係は少なくともションガル系の伝承では具体的に述べられていないが、メラ・サクテンの移住時期とグセ・ランリンの降臨は同時期であること、 バルケの誕生につながる神婚が行われたのはムクルンであること、バルケの死後ラワン・ダクパの即位までの間には1世代程度の時間差しかないと見られていることから考えると、上記のいわばツォナ王朝開始より、さらに100年ほどさかのぼった13世紀中頃が移住時期と想定されている*[06] と見られる。なお、すべて確認したとはいいがたいが、このことは別の系統の伝承に当てはめても、ほぼ同じ結論になると思う。
上記の移住が13世紀とする仮説は、伝承のみを根拠にしているわけで、史実の裏付けに欠ける*[07] 。しかし、従来のメラ・サクテンの移住時期に関する言説は、それさえも行っていないものが多く、また類似の先行研究もみつからなかったので、考察を進めて行く上でのひとつの具体的な目安としてあげておこう。
- 「ブータン資料はすべて、俗世のことには関心がない僧侶の手になるもので、この時代のブータン史の一面しか伝えず、すべては純粋に宗教的観点から書かれる。」、今枝由郎 『ブータン中世史』、「(シャブドゥンの伝記に関して)著者の精神的また学問的素養が逆に主題を曖昧なものにしている。この伝記からは、シャブドゥンは著者が展開する仏教のややこしい論議の中に推し消され、幽霊のような形でしか現れてこない。」,アリス,”Bhutan: eary history of a himalayan kingdom” 。この点は比較的その傾向が薄いとはいえ、ギャル・リグや、更に言えば(僧侶が語り手になることも多い)伝承にもいえるだろう。 [↩]
- 私はまだ「メラ・サクテン」の文献初出を確認していない。 [↩]
- アリスは伝承のこの部分に関してはウラ系の伝承の一部をションガル系が要素として取り入れたと推測している。 [↩]
- 「チベット史における年代基準の決定について」,中根千枝 [↩]
- “The Gdung of Central & Eastern Bhutan – A Reappraisal of their Origin, Based on Literary Source”, John Ardussi なお、アリスおよびアードシのこれらの考察は、「ドゥクパ・ドクトリン」を基盤にせざるをえない現在の正史では言及さえされないことが多いが、私個人の言語学的検討の結果からも一致する部分が多く、また “The Historical Anecdotes of Kheng Nobilities”, Lham Dorji, のようなブータン人研究者の論文の中でも支持されている。いずれにせよ、歴史は(正史であればなおさら)なんらかの視点に立って記述されるものであり、ブータン人がドゥクパ史観で歴史を記述しようとすることは理解できるし、心情的にはむしろ支持したい。ただ、そういった縛りのない人間(もちろん、私自身も含まれる)が、個人的な利益のために、それに全面的によりかかった言説を行うのは、西洋合理主義的見地からの知的誠実さという観点からも、宗派を超えた仏教本来の方向性からいっても、それとはまったく意味が違うと考えるしだいである。 [↩]
- もちろん、ガワンが実際にどう考えていたか、というより、そもそも考えていたかどうかは不明だが、論理上そうなるという話。 [↩]
- そもそも、そんな集団移住があったのかということさえ、証明されていない。あくまで伝承であるにもかかわらず、現在の「ブロクパ」の少数民族としての位置づけなどから、ほぼ無批判に史実として受け入れられてきたというのが現状だろう。これに関しては「移動したのは文化か、王統か、住民か」という根本的な問題もあり、改めて考察したい。 [↩]