ドゥンサムの「湖水魚蛇型」伝承2

メラ・サクテンの「ブロクパ」

ではまず、ドゥンサムの伝承では後退しているとした、北方、つまりモン・ユル地域と関係があると見られる要素と、メラ・サクテンの民族集団と、この「湖水魚蛇型」の関係について検討してみよう。

メラ、サクテンという2つのサブグループに分かれるこの民族集団は、言語、信仰、民族衣装などの点で、現在他の一般的なブータン人とは容易に区別することができ、また、彼ら自身の祖先伝承が、ブータン以外の地域から集団移住してきたことを伝えることもあり、一般に「ブロクパ」という独立した民族集団と理解されている。言い換えれば、ブータンにおける少数民族という位置づけである。このことについては、違う見方もできると思うが、ここでは、そういった「非主流の少数民族」という位置づけをいったん仮定した上で、伝承との関係を検討してみよう。

この湖水魚蛇型伝承が、その起源において、メラ・サクテンのブロクパが係わっていること、また、そのような認識が少なくても18世紀においてすでに存在していたことはギャル・リグからも明らかだ。しかし、これは少数民族としてのブロクパの位置づけからすると、実は奇妙なことだということができる。無理に日本神話に置き換えれば、「隼人は日本以外のどこかから移住してきた人たちで、彼らが信仰していた神に頼んだ結果、降臨してきた神が全国の国津神と、その血統を引く有力氏族の祖となった」と言っているに等しいからだ。

もちろん、日本の場合も史実としてそうであったかもしれないし、実際に渡来神を祖と仰ぐ有力氏族も多い。それにしても、王統の正当性を保証するための伝承が、そのような構造になっているのは、やはり不自然だといえよう。また、だからこそギャル・リグはこの「ションガル系」伝承と、そういった問題が生じにくい「ウラ系」の伝承を併記しなくてはならなくなり、また、ソナム・ワンモがわざわざ「ブロクパがなにかをゲセ・ランリンに頼んだかについては(そのために降臨を頼んだはずなのに)よくわからない」と書く(弁解する?)ことになるのだろう。

この事態が、複数の伝承の接合による不整合に起因するものなのか*[01] 、あるいは別の理由によるものなのかの分析は、おいおい行っていくとして、もう少し基本的な事実関係を確認してみよう。まずは、この伝承で語られる「メラ・サクテンのブロクパ」は、現在知られているメラ・サクテン地域に居住し、ブロクパと呼ばれている人たちと同じ人たちなのか、という問題だ。当たり前だと思うかもしれないが、複数の文化的伝統(代表的なのが言語)をもつ民族集団が雑居し、しかもブロクパ自身の伝承が示すように、集団移住が珍しくない*[02] この地域では、200年もさかのぼれば、そこで述べられる「どこそこの人」が、現在の住人とは全く違った言語、文化をもつ民族集団である、ということが簡単に起きる。

この問題に関連して、最初に注目したいのが、ソナム・ワンディが明確に「ブロクパ」としてひとつの民族集団(少数民族)として扱っている集団が、アリス訳のギャル・リグでは単に「メラ・サクテンの遊牧民」というなっているという点である。言い換えれば、ソナム・ワンディ、あるいはそのインフォーマーは、単に先に挙げたような現時点の民族観に基づいて意訳しているという可能性の検討である。

アリスの英訳を逐語訳すると「メラ(と)サクテンの遊牧民の祖先*[03] となる。一方、原文のチベット語は“me rag sag stengs ‘brog pa’i mes po”となっており、「メ mes」はチベット語の祖父、そこから祖先を意味するので、直訳すれば「メラ・サクテンのドクパの祖先」である。ゾンカでは「bra」は発音としては「ダ」、音節末の母音を伴わない「g」は発音しない、もしくはもっと軽く「k」と発音するため*[04] 、「ドッパ」あるいは「ドクパ」のようになる。現在、「ブロクパ」として認識されている民族集団の呼称は、標準的なゾンカで表記すると“’brog pa”となり、それを公式ローマ字表記に置き換えると“ Drokpa ” となる*[05] 。この“br”は「子音b+子音r」の組合せではなく、(文字種の数が足りないのでアルファベット1字では表現できない子音dに似た別の発音をする子音を「r」という文字を付け足して2字一組で表現している。これが古典チベット語文語と現代ゾンカの文字と発音の対応の時代的変化に起因すると思われる音韻対応「bra→dra」と組み合わさるため、ゾンカのローマ字表記が“Drok”となり、その発音をカタカナに置き換えれば「ドク」となるのだ。

つまり、“brogpa”に対する「ブロクパ」という読みは、チベット語の表記法、チベット語とゾンカの発音の対応を知らずに、古典チベット語の表記をそのまま英語読みしたものをさらに(閉音節が原則としてない)日本語化する、というプロセスによって生じた可能性が高い。このことが問題になるのは、「ブロクパ」という表記が、現地発音と異なるという点*[06] ではない。問題は、これが固有名詞か普通名詞なのか、また、それがどういう概念を説明する、言い換えれば分節する言葉なのかという点である。

いままでの言語学的な分析と経験から、私はブータンの言語、民族をカテゴライズする際に用いられる「ブロクパ、ダクパ、ジョッパ、プラーミー」といった用語は、一定の留保はあるが*[07] 、元々単に「遊牧民」を(そうでない人から見た相対的な分類として)指す一般的な用語で、特定の民族集団に固有名詞として用いられる言葉ではないし、また、彼ら自身も特定の「民族名」とは意識していないと私は考えている。発音の地域や言語によるバリエーションの違いと、チベット語、ゾンカ表記からくる錯誤がいろいろな形で組み合わさった結果、特定の民族集団を規定する固有名詞と誤解されるに至ったに過ぎない。従って、アリスがどのような意図で「ドクパ」を「遊牧民」と訳したのかは不明だし、他の例と比較する必要があるが、少なくともギャル・リグの著者が(あるいはその時代に)「ドパ」という言葉に、あるいは、メラ・サクテン地域の住人のエスニシティにどのような認識をもっていたかが不明な状況であれば、字義通り「遊牧民」と訳すのは極めて合理的と思われるので、試訳もそれに沿っている。

一方、ソナム・ワンディは「ブロクパ Brokpa」としているわけだが、これはこれで尊重するべきだろう。なぜなら、本来、伝統でも自己認識でもなく、むしろ「外国人の学者が勝手に付けた分類と呼称」であると想像される、これらの民族名でありカテゴライズは、外国人だけではなく、ブータン社会でも広く浸透しているからである。私見では、そのことこそむしろ本来は言語や民族衣装による民族(少数民族)の概念的既定や自己認識がなかったことの証拠だが、実際にそうなっている以上、ここで仮に「ブロクパ」と書かずに「メラやサクテンの遊牧民」と書いても、読み手は「ああ、あのブロクパたちね」と受け取る訳だし、それはソナム・ワンディが伝承を採取したインフォーマーも同様だろう。*[08]

ここで問題になるのは、そうした置き換えの結果、ソナム・ワンディの採取した伝承に「ブロクパ」と書かれていることは、現在のブータン人の認識を語っているだけであろうということが見えにくくなるという点だ。その意味では、過去の状況についてはむしろアリスの「遊牧民」の方がより古い時代の状況について示唆を与えてくれるとも言える。

チベット人の民族認識は、まず自分たち「チベット人」と、その周囲の「中国人」「インド人」があり、その3つの世界のマージナルな部分に向かって、同心円状に、言い換えるならば中華思想的な認識において、「チベット人(人)→モン人(辺境人)→ロ人(野蛮人)」というカテゴライズが行われていたことは確実であろう。また、「チベット人」の中でももちろん地域によるカテゴライズや階層化は意識されていたであろうし、中でもカムはマージナルな(しかし、「モン」とは決して混同されない)位置づけであったと思われる。少なくともブータン関係の資料を見る限り、そのように見える。その中で「定住民:遊牧民」という分節がどのように扱われていたかについての全体像を語る資格はないが、ことブータンに関して言えば、「チベット人/モン人/ロ人」といった階層的なカテゴライズが(チベット的な民族認識の伝統と、少なくとも文献の上で)共有されていた一方で*[09]、「定住民:遊牧民」 という対比は、少なくともそれと直接結びつけて、あるいは単純な階層の上下に結びつけていく傾向が希薄だったように見受けられる。

このことは、湖水魚蛇型伝承に関連する事象だけを見ても言える。ションガルと「元祖争い」をしているウラは生業的には遊牧民である(あった)ことが自明であること、むしろ低地の農耕民であることに特徴があると思われるションガルの始祖伝承に典型的な遊牧民であるメラ・サクテンが関わり、さらに「遊牧民の」と表現されていることなどはその一例だ*[10] 。この「遊牧民へのまなざし」を、よりテキストに近い位置から言えば、著者のガワンやその想定する読者は、自分たちを遊牧民とは考えておらず、また、メラ・サクテンの人々は遊牧民だと規定していることがわかる。もちろん、彼もまた、彼自身が生き、また執筆している時代の「メラ・サクテンの遊牧民」の概念規定によってそう考えているのであり、それよりはるかに昔のことであると伝承が伝える、「ある民族集団」がメラ・サクテンに移住してきた時期の状況について(少なくともテキストの中で)述べているわけではないし、それが「ドクパ」と表現されていることも直接の根拠にはならない。そもそも、その移住者たちは「メラやサクテンの遊牧民」の「祖先」なのであって、まだ「メラ・サクテンの人」でさえないのである*[11]

では、視点を変えてギャル・リグの著者は、この移住をいったいいつごろのことだと考えていたのだろうか。


  1. 別稿で述べたようにアリスは全体にそのように考えているようである。ただ、実はアリスはその著書において、他の関連する項目、たとえばタワン僧院の由来といった事柄に比べて、メラ・サクテンの民族集団やその特殊性については意外なほど多くを語っていない。一例を挙げると、彼らは現在のブータンでは非常に例外的なゲルク派に属しており、そのことはブータン人の間では(ある種のタブーに触れることになるのでおおっぴらに語られることはないにしても)常識だといえるのではないかと思うが、一般のブータン人が名前しか知らないようなドゥク派、ニンマ派以外の宗派の活動について語っていながら、ブータンにおけるゲルク派の布教について、特にメラ・サクテンとの関係についてあまり語っておらず、“Bhutan: the Early History of a Himalayan Kingdom”でも2章全体が「仏教諸派」であるにもかかわらず、その中にゲルク派はない。このあたり、あまりにも政治的に微妙だったため、アリスも書きにくかった、あるいは資料を十分収集できなかったためなのか、他の理由、たとえば、ゲルク派をカダム派の流れの中で扱うといった方針だったのかは、まだ十分検討していない。これからの課題である。 []
  2. このことはブロクパに限らず、他の集団でも、また、史実として確認できる。よく知られているのがツァンラの一部集団が500キロも離れたメドックに移住している件だが、国内の集団移住についても、たとえばシャブドゥン時代のチョチャガチャ語(クルメドカ)話者に見られる集団移民の事例を調査したツェリン・ゲルツェンの“Post-Zhabdrung Era Migration of Kurmedkha Speaking People in Eastern Bhutan”などがある。 []
  3. “the ancestors of the pastoral people of Me-rag [and] Sag-stengs” []
  4. ブータンの国号が ゾンカの綴りでは” ‘brug” であるのに「ドゥク/ドゥック/ドゥッ」と読むのと同じである。このあたりは今枝の『ブータン 変貌するヒマラヤの仏教王国』の「ブータンの固有名詞の表記に関して」で解説されている通りであり、ゾンカの綴りが掲載されているという意味では国内初と思われ、また、表記基準に関して、実際の標準ゾンカ口語発音との一致を最重視しているはずの西田文信の『旅の指差し会話帳』でもゾンカの綴り“ ‘brug ” に対して 「ドゥック」となっている。 []
  5. “A Select Terminology of Buddhism and Bhutanese Culture “, Dr.C.T. Dorji 他 []
  6. 固有名詞の日本語(英語でも同じだが)の外国語表記が現地発音と対応しないことは一般には問題にならない。ハポンとかヤーパンとかジャパンとかイルボンといった形で表記されていても特に問題が生じないのと同様である []
  7. 「ダクパ」に関しては「モンパ」のように特に一定の民族集団を指す言葉として用いられてきた可能性がある。言い換えると、遊牧民でなくてもダクパと既定れるケースもあるのではないかと思われる。この点に関しては、脇田道子さんに提供していただいた情報によると、HLP ( Himalayan Language Project)のTim Bodtが近々解明してくれそうである。また、プラーミーはそれが “Phra min” から来ているとすると、おそらく逐語訳としては「巫術士」が適当だと思われるが(“Khar Phud: a non-Buddhist Lha Sol Festival of Eastern Bhutan”, Ugyen Pelgen, ” Wayo, Wayo- :Voices from the Past “, 2004, CBS 参照)、翻ってボン教徒(の遊牧民?)といった概念を指す可能性があり、語源的に他の「遊牧民」とは別系統である可能性もある。ブータンのボン教については資料が非常に少ないので現時点でこれ以上のことは言えない。 []
  8. 採取時にけっこうな年齢であっただろう、メメ・ティンレイは「ああ、あのドクパたちね」と思ったかもしれないが…… []
  9. とはいえ、この場合、ロ・モン国の住人であることとの認知的不協和を緩和する何らかの論理的迂回が必要になり、そのことがまた文脈上の理解を難しくしているケースも多いことにも注意が必要だろう。 []
  10. ここで述べているのはあくまで歴史的な位置づけであり、また、中央のブータン人から見た異民族間全体の比較の中で、という話である。現状として少数民族としての「ブロクパ」の位置づけがどうかと言えば、少なくとも近年まで、社会階層として下位であるという認識が一般的だったといえるだろう。これには多くの個人的体験に基づく証言があるが、私はまだ実見したものがないものの、ブータンで行われる厄払いに用いられる人形(ひとがた)には、明らかにメラ・サクテンやラヤの民族衣装を模したものがあるという証言がある。大和朝廷における隼人や蝦夷の位置づけや節分に代表される厄払いの儀式におけるそういった「異民族」の位置づけなどと比較して、なぜブータンの遊牧民の中で彼らだけが「(ブータンの標準的なそれとは違う)民族衣装を着ているのかという謎を説明するための1つの鍵となるのではないかと思うが、本論からはずれるのでこの程度にしておく。」 []
  11. もちろん、伝承によっては、その祖先が遊牧民であったとはっきり説明するものもある。また、実際そうであったのではないかと私も考える。しかし、そういった思い込みが、しばしばある言葉の定義の時代による変化によって後代に付加されることが容易に起こり得るため、伝承から歴史を再構成するためには慎重にそういった可能性を排除していく作業が必要だということを強調したまでである []

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