ブータンの湖水魚蛇型祖先伝承 その5

湖の宝物

人の身に戻った後、あるとき彼は自分が魚にされてしまった、あの湖を尋ねてみた。銅の大鍋はそのまま残っていたので持ち帰ることにした。中には一寸のチャナ・ドルジ(金剛手菩薩)*[01] の像があった。これはいつの日か誰かが持ち去って、タシガンのビドゥン*[02] にある。いわばツォテル「湖の埋蔵宝」であり、いまでも目にすることができる。銅の大鍋の方はウラに運ばれ、有名なウラのドゥン・ナクポ*[03] の所有となった。シャブドゥンの時代、ウラ・ナクポは従わず、シャブドゥンとワン地方の武士たち*[04] によって滅ぼされた。だから大鍋もプナカ・ゾンまで運ばれ、「ツォチェン・ギャルポのザム(湖水王の鍋)」として知られている*[05]

さて、アリスはこの口承を、17~18世紀に執筆されたと考えられている*[06]『ギャル・リグ(rGyal-rigs:王統譜のような意味)』と比較し、いくつかの点を挙げている。

・ギャル・リグにあった、仏教以前の伝承にさかのぼると思われる部分が欠損したり後退したりしている。また、インド的な要素が消えている。
・いくつかの要素は、後代の付加、また、別の伝承との混淆と見られる。
・本来の伝承にはチベット文化全体と共通する山岳神伝承が中核的なモチーフだったと見られるが、現代の口承では、それがドゥンスムの湖と蛇体の水神に関する伝承に置き換わっている。
・いずれにおいても「水」に関するモチーフが豊富で、これは「ツォナ(始まりの湖)」という土地と関係が深い。
・ドゥンスム系伝承のクライマックスに見える、魚に変身した人が、人身に戻っている間に捕まるというテーマは、東ネパールのトゥルン・ライ(Thulung Rai)にも類似のものがあり、敦煌文書に遡ることができるという説もある*[07]

神話・伝承とは、民族が経験した過去の事実の痕跡であり、そのバリエーションは過去の事実を忠実に保存した「正しい」ものと、そこから派生した「間違った」ものがあるため、と考えやすいが、そうではないだろう。神話・伝承とは、特に祖先伝承は、現在の状況を説明するために、語り継がれてきた物語の構造に、現時点で知りうる要素を当てはめて造り出すことにこそその機能がある。従って、置かれている(説明しなくてはならない)状況が変われば、それに応じて変化しなくてはならないし、また、それができることが、「あるべき伝承」であり、その意味では、それこそが「正しい」伝承であり、それにもかかわらず「過去の事実の正確な伝承」しか行うことができないなら、もはやそれは神話ではなく、単なる記録であると言える。

逆に言えば、そこからなんらかの過去の事実や状況を再現するためには、アリスのような作業が必要になってくるのは当然だろう。しかし、それは神話・伝承が本当に伝えたかったこととは無縁の作業だとも言える。と、大上段に振りかぶれば、「なにをあたりまえのことを」と坊さんに、特に墓の下、ではなくて、転生してどこかにいるはずのテルトンたちから笑われそうである。しかし、残念なことに、そういった「正しい」真理へのアプローチの道筋を知ることなく馬齢を重ねてしまった身としては、アリスのように西洋合理主義的アプローチを重ねるしかあるまい。

というわけで、次はアリスが英訳している、『ギャル・リグ』に当たってみよう。既に紹介した口伝とギャル・リグの間にはかなりの時間差があるため、それらが共に語る、12、13世紀に近いというだけではない。伝承がその成立時の情況をなによりも反映するというのであれば、ギャル・リグはそこで語られる時代そのものだけでなく、成立年代と思われる300年前のブータンをも垣間見させてくれるはずだからだ。ブータンの通史を再構成しようと試みるアリスはあまりその点に注目していないようにも見えるが、それはそれで興味深い情報なのである。

 

 


  1. なぜ特にチャナ・ドルジなのかはわからない。チャナ・ドルジ自体はブータンで広範囲に信仰を集めているようで、よく像や壁画を見かける。記憶によれば、たとえばプナカ・ゾンのキュンレイの右奥の像がそうだ。 []
  2. 綴り不明としていることから、アリスはバルツァムのチャドル・ラカンにその伝承があることを知らなかったようだ。バルツァムはビドゥンと隣接した村で、ビドゥンにはナクツァンがあるため、この地域を総称してビドゥンと呼ぶのはおかしくない。ただし、ビドゥン、バルツァムの付近は非常に民族構成が(少なくとも言語分布の上で)複雑で、隣接しているとは言え、古くから同じ文化圏、政治圏に属していたとは断言できないこと、この寺がガラップ・リンポチェや先代ケンツェー・リンポチェとの深い関係があることも含めて、伝承がどれだけさかのぼるかについては改めて検証が必要であることを指摘しておく。 なお、このチャナ・ドルジ像については、小林のメモによればペマガツェルのモンリン・ツォやダンリンの息子と関係する伝承があるようだが、先日お会いした際にはそのことについて突っ込んだ話ができなかった []
  3. ブータンのドゥンの家系でも、特に権勢を振るったことで知られる。日本史になぞらえると、奥州平泉氏、あるいは清原氏のようなイメージか? ちなみに「ナクポ」は「クロ」で、「ドゥン・カルポ(白)」というのもいる。シャブドゥンによる(厳密には既に死後なので、3代デシのミギュル・テンパによる東部制圧でこの家系は途絶えたと思われる。歴史家のJohn A. Ardussiが、2002年にウラのガップの家の裏でミギュル・テンパが建立したと思われる碑文の刻まれた壁型チョルテンを発見している[“A 17th Century Stone Inscription from Ura Village”] []
  4. 原文では「ティンプー、プナカ、ワンデュ・ポダンの民兵」の注釈がある。シャブドゥンの兵力は、富農、小領主とその郎党が中心で常備軍ではない。これは鎌倉武士などとほぼ同じと考えればいいだろう。ただし、階級的に「武士」というものが平民階層である農民と明確に区別されていたわけではないが、これは鎌倉武士も同じだろう。また、ワンの武士たちは、ドゥク派軍事力の中核として特別扱いされていたと思われ、そのことは現在のプナカのツェチュからも想像できる。 []
  5. この大鍋は鋳つぶして寺の鐘にしたという伝承もあったと記憶するが、確認できなかった。また、プナカに「ツォチェン・ギャルポ・ザム」が現存するかも未確認だ。現存する場合、実際に運ばれてきたと考えるより、もともと何かの理由でそう呼ばれる器物がプナカにあり、その名前から、湖との関連の深いこの伝承と結びつけられた、言い換えれば、伝承の中の湖の要素は古いことが推定できる。 []
  6. アリスは1728年としているが、彼の“Sources for the History of Bhutan”を編集した歴史学者のArdussiは、その60年前の1668年だろうと推測しているが他にも異説がある。 []
  7. ちなみにブータン版以外ではいずれも変身して家事をするのは当然女性である。アリス自身は、このことをむしろ、ストーリーの構造が古く、登場人物はあとからはめ込まれるからそのような交換可能な状態が成り立つということの根拠としている。それはそれで、うなずけるところだ。ただ、アリスはそこで娘が若者に置き換わった理由を、男系の王統を説明する伝承を造り出すために、無理矢理別系統の伝承による換骨奪胎を行ったと見ているらしいのに対して、私はちょっと違う見方をしてみたわけである。 []

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