プンスム・ツォクパを巡って 4

4)なぜ「圓満」なのか

ずいぶん、遠くまで来てしまった。諸橋論文に話を戻そう。私には説明できない部分が2点ある。まず、なぜ調和では不十分なのかという点である。そしてなぜ、「円満」ではなく「圓満」なのかという点である。

既に述べたように、私も確かに“harmony”は「プンスム」の語義と一致しない部分があるのではないかと考えており、それは「調和」という日本語対訳に対しても同じことが言える。「プンスム」は対立した状態、調和のとれていない状態を前提、あるいは時間的な前段階としてはおらず、むしろそれ自体、原初的な状態に近いと考えるからだ。

このことは足し算引き算で考えるとわかりやすい。調和のとれている状態に後から別の要素を加えた場合、あるいは、どれかの要素を取り去った場合どうなるだろう。ある要素を加えた場合、調和が崩れるかもしれないし、崩れないかもしれない。崩れはするが、一定時間、あるいはなんらかの変化を受けて、再び調和のとれた状態に移行するかもしれない。一方、要素を取り去った場合、調和は崩れるかもしれないが、崩れることは(少なくとも新た要素が加わる場合に比べれば)前提とされてはいない。四和音から1音を取り去っても、それはやはり和音なのである。

プンスムは違う。それが新たに要素を加えるということをあらかじめ想定してはいないことを、聖数「3」が示している。逆に1つでも要素が減ることは決定的な意味をもち、そこではもはや「プンスム」が象徴していた完璧性、至上性は根底から崩れてしまう。というよりもむしろ、その「欠けた」状態に対比して「すべてそろった――文字通り「完璧」な――満たされた状態」がプンスムなのではなかろうか*[01]

一方、「円満」という言葉は、「対立から非対立へという状態の移行」を意味するのではないだろうか。円満という日本語は「円満解決」と「夫婦円満」といった熟語でしかあまり用いないことばであると思うが、いずれにせよ2つの状態の対比と、その動的可変性に重点がおかれているように見える。

もう1つの謎、「圓」は「円」の正字なので、字体が違うだけで意味はまったく同じだ。しかし常用漢字には含まれないため、現在一般には用いない。敢えて用いるとすれば特別の理由がある場合(たとえば人名など固有名詞の一部)である。

  1. 仏教用語、あるいは特定のチベット語の日本語対訳として狭義の「円満」があり、その場合区別するために慣習上「圓満」と表記する。
  2. 翻訳にあたって中国語訳を参照しており、それが簡体字で表記されていたのをそのまま転写した。あるいはなんらかの理由で康煕辞典に基づく字体とした。

2つの説明を考えてみた。前者については調べた範囲で実際の用例がみつからなかった*[02] 。後者の場合「満」の字体も同様な選択基準となるはずなのにそうなっていない説明がつかない。この字体の問題は「単なる『調和』の意味とは捉えていない(諸橋)」ため、あえて「圓満」を使うという提案の真意と関係があるのではないかと想像するが、結局上手く説明できない。

4)終わりに

調和党、プンスム・ツォクパという党名が、実は幾重にも重なりつつ広がっていく数百年の伝統に立脚する象徴の連鎖を背景にし、参照し、新たな意味を織り込んでいこうとするものではないか、ということについて書いてきた。そこで私がいちばん心惹かれるのは、実は最後の部分である。ブータンの魅力については、しばしば「伝統文化が保存されていること」と説明されてきたが、むしろその核心は別のところにある。伝統が保護されるもの、保存されるものとして凍結されいるのではなく、現在も常に新たな意味が問い直され、書き加えられているという状況こそがブータンのユニークな点ではないだろうか。

思うところあって、このところパジョ・ドゥゴム・シクポの伝承を調べていた。その過程で気が付いた、少なくても私が夢想したのは、たとば諸橋論文が参照しているソナム・キンガの著作も次の時代を紡ぎ出そうという、その思想的営為の中に、深く、重層的にそういった過去の伝承や象徴を織り込もうとしているということであり、それは世界遺産候補リストへのパジョ関連の史跡の登録といった目立たない、しかし具体的な行動の中にも透徹されたものであるという発見である*[03]

そうした水面下の水鳥の足は、同じ伝統を体験的に共有しないわれわれ外国人の眼にはとまりにくい。変わらないためには変わらなくてはならないという、本来の保守が引き受ける革新的側面を見失ったが故にあがいているのが現在の日本であるとするならなおさらのことだろう。ドルジ・ペンジョルによれば、ジュンデル・プンスム・ツォクパは現在も広く、さまざまな状況で行われており、特に5代国王戴冠の際に全国各地で自発的に多数のジュンデルが行われたという。それはもちろん慣習としての過去400年の伝統を引き継ぎつつ、民主主義という新しい時代の萌芽を無意識に内包していたはずである。「調和党」の命名が、優れたプロパガンダ戦略だったというだけでなく、その新しい時代の新しい「プンスム・ツォクパ」に相応しいものかどうかが、まだまだこれから問い直されて行くのであろう。そしてまたそれは、GNHとか幸福とか、あるいは「民主主義」といった単純化されたレンズを通してしかブータンに迫ることができない、我々自身の未来*[04]への問いかけでもあるのだ。

 


  1. 諸橋論文に寄れば、結党後、DPTには脱退者が出たようだが、これが合流した2党のうちどちらかがそのまま脱党ということであれば「プンニ」状態で大変なことになっていたはずである。仮に政権がとれても、日照りや家畜の疫病、地震は逃れられなかったであろう、というのが……以下略。 []
  2. 一応、諸橋による憲法日本語訳を当たってみたが、用例を発見できなかった []
  3. 「民」を意味するゾンカの用語やその概念、中世の社会構造や身分制度、そしてそのチベットとの比較にややこだわってしまったのは、そのせいもある。 []
  4. しかし、ここでこのように「未来」とか言ってしまうところが、おそらく的外れである。なぜなら、私が未来を見つめながら現在を生きているように書いているブータン人は、実際には未来は過去であり、過去は未来であり、そしてどちらも現在であるというような、輪廻転生を体感的に肯定した世界観、時間軸の中で生きているに過ぎず、別の世界観、時間軸からはそれが見えないからこそ、「未来を目指して」的、言い換えれば近代合理主義的な、あるいは一神教的な座標の中に無意識にピン留めしようとするため、そう感じてしまうのであろうからだ。単に「中二病」に罹っているだけとも言えるが、ブータン人の論文スタイルをちょっと真似てみた。 []

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