プンスム・ツォクパを巡って 3

2)英語訳かゾンカ訳か

では、なぜその「プンスム」の英語訳が“harmony”となるのか。「ハーモニー」という言葉には、「異質のものがお互いに影響を与えつつ、新たな価値を生み出すこと」、あるいは、「異質なものが対立を解消し、全体として安定した存在となった状態」といった意味があるのではないだろうか。その意味では、「プンスム」の語義と重なるし、それに宗教的なニュアンスの“Blissful(めでたい)”がつけばさらにそうだろう。ただ、ここまで述べてきたようにプンスムの各要素は、「異質」というより「同質」であるところにこそポイントがあるように思われる。

「プンスム」の一般的な語義がたとえそうだとしても、また縁起がいいからといって、さすがに英訳を「Perfect Party(完全無欠党)」とか「Excellent Party(卓越党)」にはできない。そこで3党合流の比喩も含めて、あえて“harmony”をもってきたとしたら、なかなかの知恵者がいたものだと思う。しかし、おそらくこの英訳そのものにはあまり意味がない。なぜなら、後述するように、英語による表現を副次的なものとしたことにこそ、DPTの戦略の新しさがあるからだ。実際、DPTの党名英語表記というか英語訳は、仮に公式には諸橋さんの言うとおりであったとしても当初から揺れており、重視されていなかった、あるいはそれを必要とする(が、本質的な語義はいずれにせよ転写できない)海外メディアへの消極的な対応にすぎないという印象を受ける。

DPTは公式サイト(英語)を見ても“Druk Phuensum Tshogpa”と書かれており、特に“Party of Blissful Harmony”とは、少なくとも目に付くところには書かれていない。シンボルマークもそうだし、レターヘッドもそうだ。そもそも、「DPT」という略号自体が、「NHK」方式なのである。一方、PDPはミセル・マンツォイ・ツォクパ*[01] というゾンカ名が諸橋論文に出ているが、公式サイトには“People’s Democratic Party”としか書いておらず、略称もそちら頭文字である。むしろゾンカ名の方が英語名の「ゾンカ訳」だとさえ感じさせる。

ブータンの国内政党なのだからDPTのやり方が(略号はともかく)当然で、PDPはおかしいのでは?、と思うのは日本の常識に囚われているからである。ブータン政府はゾンカを公用語としており、実質的に「国語」として扱っているとはいえ、実態としては一部官庁を除けば公文書も英語中心だ。その証拠に各官庁の公式ホームページもほとんど英語のみである。ゾンカというよりも古典チベット語が不可欠な司法関係を除けば、2言語併記で作成される公文書も、英語版がオリジナルで、そこから「ゾンカ訳版」を起こしている例が多数派だと見られる*[02]。比較的ゾンカの使用頻度が高いと思われる官庁が、地方行政、文化教育省、農業省であることからも分かるとおり、その使用頻度は伝統社会との距離と比例する。そして、理念はともあれ、「民主主義」「選挙」「政党」といった概念は、大多数のブータン人にとってクルマやテレビやコンピュータと同じく、「まったく新しい外から来た概念」なのである*[03]

この意味では、むしろ「PDP方式」の方が現代ブータン的には自然な発想で、「DPT方式」の方が新しい発想なのである。諸橋論文でも指摘されているとおり、非選挙資格に学歴差別ともとれる制限があることもあり、ブータンの国会議員はまったくなんの問題も無く英語で国会討議を行うことができる*[04] 。ティンレイ首相自身、海外留学経験に加え外務大臣経験もあり、英語は完璧である。しかも彼の選挙区ペマガツェルは言語的には非ゾンカ地域(ツァンラ地域)なので、「英語の読み書きは不自由なくても、ゾンカの読み書きは苦手」の有権者の方がその逆の有権者より多いとみられる。そう考えるとPDP方式の方が合理的でないかと考えてもおかしくはない。

この党名を巡る戦略の差はは、支持率にも影響したのではないか。既に述べたような、「ありがたい仏様のの完璧な党」と「なんだかよくわからない英語の党」のどちらかを、これまたよくわからない「選挙」という公事として選べ、と言われたら、前者を選ぶというのが人情だろう。特にそこら中にいる「プンツォさん」ならなおさらのことだろう。言い換えれば、比較の上では「王党派」「保守派」とみられがちなPDPのポジショニングとプロパガンダ戦略の間に矛盾が生じたことになる。

信頼できる統計はないのでおおざっぱな例えになるが、ブータンの有権者の識字率はおそらく50%程度で、その読み書きのできる方の半分は、おそらくほぼ全員が英語のコミュニケーションが可能だ*[05]。そのできない有権者のうちゾンカの会話に不自由のない人はさらに半分に絞られる。とはいえ、残りの半分の人も、おそらく「プンスム」のような仏教関連の日常語彙であれば理解できるだろう。となれば、党名に関して「2言語併用策」をとったとみられるPDPの党名は、「ゾンカ一本槍策」をとったDPDより幅広いリーチを狙ったつもりで、重複コストも含め、結果的にエリート層である英語コミュニティと、ゾンカ話者コミュニティ以外には党名が浸透しにくかった可能性さえある。

3)プンスム・ツォクパのダブル・ミーニング

今回、あらためてプンスムの語源を調べて私も初めて気が付いたが、どうやらそれだけではないらしい。「プンスム(調和/圓満)+ツォクパ(党)」の合成語である「プンスム党」と、「プンスム」という語の語源と関連があるとして先ほどとりあげた「プンスム・ツォクパ」という語は、ゾンカ表記も発音も、そしてたぶん語源も同じである。「ツォク」には「集まる」といった意味があり、直訳的には「3つある」という意味しかないと思われる「プンスム」に、「集まって」という意味を添え、さらに「人」を意味する「パ」が加わっているのだろう。チベット語の仏教用語辞典で“Perfect”の訳語を調べると、プンスム・ツォクパを最初の後補として挙げつつ“phun sum tshogs par ‘dod na / if you want to be perfect”というように用例を示している。確認したが、「調和党」のゾンカ綴りと、この用例の「プンスム・ツォク・パ 」はまったく同じ綴り、ཕུན་སུམ་ཚོགས་པ である。

チベット語「ツォク」に「集まる」「溜まる」の意味があり、「政党」という新語をゾンカで表現するために、DDCが「ゾンカの『政党』はツォクパとする」とどこかの時点で決めたわけだ。結果的に党名を「プンスム」とした場合、プンスム・ツォクパは全体でなじみのある伝統的な用語でありつつ、「(政党)プンスム党」という新しい概念も意味することになる。実際にそこまで考えて命名したのかどうかは不明で、以上は私の乏しい知識に基づいた仮説に過ぎないし、そもそもゾンカ話者に確認してから述べるべきなのだが、仮にそれがゾンカ文法的に成り立たない、そのように受け止める(誤解する)有権者も少なからずいたのではないだろうか。

さて、ここまではゾンカの問題というよりも、ブータンでも仏教的伝統の中核を形成しているチベット語の枠で捉える方が適当なテーマだったかもしれない。だがその反面で、ブータン人にとっての「プンスム・ツォクパ」という言葉は、さらに多元的な意味の曼荼羅を紡ぎ出しているのではなかろうか。車の通わない山の上のお寺の壁に寄りかかり、まどろんでいる老人に「プンスム・ツォクパとはどういうものか教えてください」と訊ねたときに返ってくる答えは、政党についてではないだろう。そう考えるのは、プンスム・ツォクパという語に関連して、ブータンの伝統文化や価値感に深く関連する2つの言葉が思い浮かぶからである。

その1つは「シャブドゥン・プンスム・ツォクパ zhabs drung phun sum tshogs pa」タンカ(仏画)である。これについては、だいたいあれだなというのはわかるが、なにしろブータンの寺院も、そしてアリアナ・マキが論文*[06]を書いているタンカを所蔵する国立博物館も内部の写真撮影禁止なので、実際の図と照合して確認出来ない。しかし、マキの論文の文章からいって、要するにシャブドゥンを中心に、ツァンパ・ギャレーなど、その法灯の継承を示す祖師たちの図像を周囲に散らしたあのスタイルで、いわば「シャブドゥン諸尊参集図絵」であろうか。

もう1つは、もっと一般的で、しかし、やはりシャブドゥンとの関係が深い、“ジュンデル・プンスム・ツォクパ bzhugs gral phun sum tshogs pa”という儀式だ*[07]。ツェチュに代表されるようなブータンの伝統行事の際に、いや、伝統行事でなくてもちょっとした寄り合いなどで、例えば寺の広間に村人が向かい合って並び、世話役からバター茶や食事の供食を受けている姿を目にする機会は多いのではないだろうか。あれがそうだ。「ジュン」は「座る」、「デル」は「列」なので、ジュンデルで「並んで座る」となり、「プンスム・ツォク」は「慈悲、名声、富貴の三属性を兼備」でそこから「完璧、富、名声、めでたさ」といった意味になる――ドルジ・ペンジョル――というのは既に見てきた通りである。
1640年、国家統一事業のさなかにあったシャブドゥン、ガワン・ナムゲルは、プナカ・ゾンの棟上げ式において、参集した支持者を並べて席につかせ*[08] 、各地から献上された食材を振る舞った。これがジュンデルの起源だと伝えられている。いわば、ひとつの目的に集う同志の絆の確認であり、国土の統合と繁栄の擬制的、呪術的模倣*[09]だとも言えるだろう。同時にそれは参加者にとって、シャブドゥンというリンクを通じて、眼には見えなくとも、その場に存在する諸仏、諸尊の聖なる空間との接続という、いわば三次元、四次元的な「集い」を意味し、またそれが実感されるのである。もっとも、これらの考察は仏教儀礼の伝統の上での正確な比較や位置づけを行った結果ではなく、あくまで印象である。

プンスムという言葉は、意味の上での密教的な象徴的な連鎖を呼び起こすだけでなく、仏画や儀式を通じた視覚的な象徴のネットワークを展開し、それはまさに曼荼羅という方法論の本質的な意味に重なっていくものだという気がしてならない*[10]


  1. mi ser dmangs gtso’i tshogs pa(諸橋)。この日本語カタカナ表記にはあまり自信がないが、本稿は日本語カタカナ表記の問題は解くに扱わないということで重ねて勘弁してください。DDC辞書によれば、“མི་སེར།mi ser”は「民衆(people)」、“དམངས་གཙོའི་ dmangs gtso’i”は「民主的(democratic)」で、「民主制(democracy)」は“དམངས་གཙོའི་རིང་ལུགསdmangs gtso’i ring lugs”。従って字義通りの対訳であり、また、説明は省くが、チベット語の表現はやや異なると思うので、これは本文で述べたように、近代的な概念(言葉)をチベット語からの借用やゾンカの固有語を組み合わせて新たに定義しなおすという、現代ゾンカの言語状況を示す典型例かと思う。なお、もし「原語の意義を重視」なら、このPDPの場合も英語党名とゾンカ党名との対応の確認が必要だったはずだ。“mi ser”はチベット語の場合(手持ちの辞書の範囲から判断する限りでは)被支配者、奉公人、家来の意味をもつ歴史的用語で、農奴も含むようである。一方、近代化以前のブータンは農奴(ダプ drap)、奴隷(ザセン zasen)も存在したがその比率は少なかった(そのことを論拠の1つとしてそれが果たして「封建制」と呼べるのかと問いかけたタシ・ワンチュクの論文“Change in the land use system in Bhutan: ecology, history, culture, and power”などもある)、そのことで、ヨーロッパやチベットの封建制に比べて自作農、あるいは特に身分的拘束を受けない小作人の人口比率が高く、それが現代のブータン社会の(伝統的な文脈での)民主的な性格につながるという見方もある。ここでゾンカが歴史的な、つまり日本語であれば民、民草、百姓に相当するであろうケプ kheap、テルパ threlpasといった用語を使わず(はっきりわからないが)チベット語起源と思われるmi serを“people”に対応する訳語として規定したというプロセスは、明治時代の日本が「人民」「国民」といった造語を行った過程と比較して、それ自体考察に値するテーマだろう。本稿のテーマからはずれるので、これ以上の考察は避けるが、「mi ser」の日本語訳を「国民」ではなく「人民」としてもおかしくなかったはずだし、その検討は「調和」と「圓満」の比較に比べ、とりたて軽いとは思われない。諸橋さんは憲法翻訳の際にこういった点を既に検討していると思われるが、不勉強なので私はまだよく理解していない。 []
  2. このことは本年2月にDDCのナムゲ・ティンレイ氏を迎えて東京外語大で開催された「ブータンを知る文化講座:ゾンカ語の現在と未来」でも訊ねたし、その後も別のDDC職員や教育省職員に直接聞いたが概ねその通りという返答を得た。そもそも、選挙戦においてマスメディアが大きな(日本ほどではないにしろ)大きな役割を果たしたと見られ、そのことは諸橋論文にPDPの敗因として海外報道(特に知識層はインドの英字新聞などから自国に関する情報を得て判断材料としているところが日本とまったく違うブータンの常識である)が挙げられていることからもわかるが、そのマスメディアは海外メディアはもちろん、国内メディアも英語が圧倒的に優位である。 []
  3. その一方で、少数派とはいえ少なからぬ比率の国民が、ある意味民主主義大国であるインドも含めた海外留学経験があることなども含めて、たとえば日本の「民主主義」に比べてどれだけ「遅れている」かは一概には判断しにくいことは、結果を含めたその後の経緯から明らかだろう。そもそも、「国民の生活が第一」とか「憲法みどり農の連帯」とか、英語表記はどう考えていたのかこっちが聞きたいし、ゾンカへの翻訳で悩んでいるブータン人がいたら「適当でいいです」とアドバイスしたい。 []
  4. この点は民主化以前から同じで、厳しい学力選抜をくぐり抜ける上級公務員はもちろん、英語ができなければ政治家は務まらないのがブータンである。諸橋論文ではRDPのサンゲ・ゲドゥプ党首が欧米圏への留学経験のないことを指摘しているが、ジグミ・Y・ティンレイとサンゲ・ゲドゥプは、以前書いたように同じカリンポンのグラハムズ・ホームの1年違いの先輩・後輩であることからいっても、この程度の「欧米への留学経験」の差は英語コミュニケーション能力という面からはあまり大きな意味をもたないと思われる。別の言い方をすれば、あったとしても経歴の差ではなく個人差だろう。 []
  5. ブータンの学校教育は初等教育より英語を教授言語としている。一方、仮にゾンカ(のベースとなった西部ブータン方言)の話者であっても、それは会話能力のみを保証するだけで読み書きは学校教育に依存している。学校教育を受けていない国民(特に中高齢者)はそもそも読み書きができないし、学校教育のカリキュラムでゾンカの読み書きに当てられるコマ数は英語と比べて限られており、「ゾンカの読み書きが不自由なくできる人」はエリート層でも限られるのが実態である。これには、エリート層であればこそ、高校、大学時代を海外で生活するはめになるという構造的理由も大きく影響している。こういった一般状況の例外は僧侶であるが、僧侶にはそもそも選挙権がない。 []
  6. “A Zhabdrung Phunsum Tshogpa (zhabs drung phun sum tshogs pa) Thangka from the National Museum of Bhutan Collection”, Ariana Maki, 2011, Journal of Bhutan Studies Vol.25 []
  7. “ROWS OF AUSPICIOUS SEATS:The Role of bzhugs gral phun sum tshogs pa’i rten ‘brel Ritual in the Founding of the First Bhutanese State in the 17th Century”, Dorji Penjore, 2011, Journal of Bhutan Study Vol.24 が詳しいが、日本語訳された著書もあるクンザン・チョデンさんのウゲン・チョリン博物館公式サイトに彼女が2005年に書いた食文化に関する論文が掲載されている。彼女の家系とウゲン・チョリンは、それこそジュンデル・プンスム・ツォクパの400年弱の歴史を、さらに100年以上さかのぼる旧家であり、その家内行事としてこの儀式の伝統が守られていたという証言が興味深い。なお、前出ドルジ・ペンジョルの論文によれば、この儀式は国会の各セッションの前にも行われるそうである。 []
  8. この行為はシリアルな序列の意識化、視覚化(好意的に見ればそれによる対立の解消、予防、つまりマウンティング)であると同時に、(シャブドゥンを除けば)均等の平面的な配置という意味での「平等」の確立を想起させる。(もちろん、その時点ではこうした知識や認識はなかったわけだが)過去何度か実際にその末席に加わったときに思い起こしたのは、ラマダン(断食)明けを告げるアザーン(呼びかけ)がミナレットから響く夕暮れのエル・ジャナ・フナの広場で、たまたま隣り合わせた男たちと手持ちの食料を分けあい、裕福な商人から喜捨されるスープが配られるのを、仮設の長いテーブルで待っていたときの感覚であった。 []
  9. これらの要素はわが国の大嘗祭を思わせる。実際、シャブドゥン時代の税制は――というのは20世紀前半まであまり変化がなかったことを意味するのだが――租庸調と似ていて、各地の特産物の物納が含まれる。第1回国会(1953年)の議事録で「いままでシャル地方(ワンデュ・ポダン)の民は毎年米袋用に皮袋を59枚収めることになっていたが、年貢をやめた(※金納になった)以上、もう不要ではないかといってきたが、いかがなものか」といった議論をしており、たまたま『御堂関白日記』の解説書も読んでる途中だったせいもあり不思議な感覚だった。 []
  10. ここまで言うと、「ではDPTの候補者たちは、教祖ジグミ・Y・ティンレイを中心に「ジュンデル」する祖師たちなのか、ということになってしまう。しかし、ゾンカの辞書なんかを調べていると、ブータン人の大好きな「めでたいものを決まった数だけ集めたセット」には、よく知られた「七種の供物」などと並んで、よく意味はわからないが「転輪聖王の七種の尊い財産」なんていう盛り合わせに象や馬と並んで「大臣」がさりげなく入っていたりするのである。七福神に管公が入って、さらに打ち出の小槌や銭亀が加わっていたりするような感じか? []

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