ブータンの湖水魚蛇型祖先伝承 その4

神聖王の死

若者が成長し、その威光が広がると、人々は彼を殿様としてまつりあげた。トゥスタン*[01] の王である。いまも残るションガルのゾンは、彼……名前は忘れてしまったが*[02] ……によって建てられたと言われている。やがて、彼の力が並びなきものになり、人々は彼を怖れるようになった。こうして彼は皆の者を従わせ、養い、諍いを鎮めたのである。彼の死が近づくと、人々は奏上した。 (さらに…)


  1. 不明。アリスも綴り不明としている。しかし、具体的な地名の対応はともかく、これがションガル、あるいはトンプといったこの地域にかつて存在したといわれる地方権力の由来の説明であることは疑う余地がない。 []
  2. 別伝の紹介で説明するが、一般にはダクパ・ワンチュンとされている。 []

ブータンの湖水魚蛇型祖先伝承 その3

蛇精との戦いと遍歴

「承知しました」
そう答えて彼は出発したが、道の途中で懸念が増してきた。
「中はウツロなのではないだろうか。私は敗れて死ぬに違いない」
彼が中を覗こうとすると、隙間からその姿が猿に似た*[01] 異形の蛇が2、3匹這い出てきた。すぐに栓を戻したが、その場所こそ「ドゥル・チュ・リン(蛇の水の土地)*[02]」と呼ばれる土地であり、いまでもそのときの蛇の末裔が住んでいる。 (さらに…)


  1. この表現の意味についてはアリスも不明としている。 []
  2. 位置不明。ただ、ションガル付近は蛇が多いので有名という話を聞いたことがある。 []

ブータンの湖水魚蛇型祖先伝承 その2

神童の誕生

ドゥンの家系はウスン王*[01] の末裔だ。あるとき、インド国境のカンパディ*[02] という国の威勢のある殿様が、ツォナ*[03] の殿様のご息女*[04] を奥方として迎えることになった。 (さらに…)


  1. King ‘Od-srung:伝承によればランダルマの王子で、ツアンマ王子の甥ということになる [Aris, “Bhutan”,1978, p.98] ほか。 []
  2. 口伝のテープ起こしなので、アリスも「チベット語の綴り不明」としている。現在の地名で思い浮かぶのはカルバンディKharbandiだが、異伝との比較検討が必要だろうし、あとで説明するようなこの口伝の性格から言えば、もしカルバンディだとしても、それは現在比較的よく知られたインド国境沿いの地域の1つ、という以上の意味をもたない可能性が高い。 []
  3. 現在の西蔵自治区错那県の県庁所在地。歴史的に東ブータンの一部を含む、この地域の中心地であり、ブータンの各民族集団の祖先伝承はいずれもなんらかの形でこの地に由来を求めていることが多い []
  4. ここだけ読むと、ツォナの王家がウスン王の末裔というように読めるが、これから語られる神聖王の後継者には、彼とは直接の血縁関係にないウスン王の子孫が選ばれるため、どちらとも判断できない。従って、この部分は「湖水魚蛇型」のプロットが、後段の「転生略取型」のプロットとの整合性をとるために「貴種流離型」の要素を仲介にしている、という程度に受け止めるのが適当だろう。 []

ブータンの湖水魚蛇型祖先伝承 その1

先日、雲南講話会で小林尚礼さんのメラ・サクテンの信仰に関する講演を拝聴する機会があり、その後、脇田道子さんと3人で会ってさらに話をすることができた。私はメラ・サクテンには行ったことがなく、また伝承とか信仰には疎いのだが、1つには国境関係の歴史を調べており、それにメラ・サクテンの人たちの歴史が密接にかかわってくること、もう1つは昨年のブータン研究会の西田文信さんの講演に触発され、それ以来少数言語と民族分布にすっかはまっていることがあり、「メラ・サクテンの人たちは、いつ、どこから来たのか?」は重要な課題である。 (さらに…)

プンスム・ツォクパを巡って 3

2)英語訳かゾンカ訳か

では、なぜその「プンスム」の英語訳が“harmony”となるのか。「ハーモニー」という言葉には、「異質のものがお互いに影響を与えつつ、新たな価値を生み出すこと」、あるいは、「異質なものが対立を解消し、全体として安定した存在となった状態」といった意味があるのではないだろうか。その意味では、「プンスム」の語義と重なるし、それに宗教的なニュアンスの“Blissful(めでたい)”がつけばさらにそうだろう。ただ、ここまで述べてきたようにプンスムの各要素は、「異質」というより「同質」であるところにこそポイントがあるように思われる。 (さらに…)

プンスム・ツォクパを巡って 2

1)プンスムのゾンカ語義

政党名に限らず、外国語固有名詞の日本語表記に関しては、必ずしも原語の語義を翻訳するとは限らない。外国の政党名の知名度調査をしたら、共産党には及ばずとも、かなり上位に食い込めそうなトーリー党やホイッグ党を「アイルランドの無法者党」とか「スコットランドの反逆者党」と訳したりはしない……というのは冗談だが、本来、固有名詞である政党名は、たとえばその日本支部が日本語表記を発表すれば、それが原語における意味をどこまで反映しているかとは無関係に正式日本語名として採用されるのが通例だ。基本的には「翻訳」の問題ではなく、慣用と当事者の意向の問題である*[01] (さらに…)


  1. 昔はビルマと呼んでいた国をミャンマーと呼ぶようになったのは、そっちの方が正しいからでも現地発音に近いからでもなく、ミャンマー政府がそう呼んでくれと言ってるからであるのと、基本的には同じである。 []

プンスム・ツォクパを巡って 1

先頃発表された諸橋邦彦さんの論文、「ブータン王国2008年国民議会議員選挙とその制度的特徴」は、原語(ゾンカ)表記を示すワイリー表記*[01] が併記されているという点でも興味深い。ブータンの場合、ブータン国内の情報のかなりの部分が(政府資料も含め)英語文書であるという現実があるため、日本国内で発表される報告の多くも英語文書のみを参照していることが多く、そのことによって語義が伝わらなかったり、不正確な表現となることが多いのは事実だ。個人的にも、その中でもいちばん表面的な日本語カタカナ表記の問題に取り組んで来た。論文の内容自体にも、もちろん注目すべき点がたくさんあるのだが、ちょうど明日、ブータン最高峰ガンカル・プンスムについて何人かで集まって話をすることになっているので、まずはそれと関係する「ドゥク・プンスム・ツォクパ」についての諸橋さんの指摘について考えてみたい。 (さらに…)


  1. 正確に言うと、ゾンカのワイリー表記はチベット語のワイリー表記とは完全に一致しないため、「ブータン式拡張ワイリー表記」?。ゾンカでも使用しているチベット文字はアルファベットなどと同じく表音文字なので、その表現する母音や子音をそのまま対応する(発音の近い)アルファベットに置き換えることができる。ただし、表音文字であるアルファベットを使っている英語の綴りが、必ずしも発音と対応していないように、表音文字であるからといって発音をそのまま示しているわけではない。 []

ブータンの初期学校教育とグラハムズ・ホーム

教育は農業、信仰と並んでブータンについて語られることが多いテーマだが、いままで日本で発表されている言説のほとんどは1960年以降の、それも政府の公式発表をそのまま資料としただけのものがほとんどだ。平山雄大氏の「ブータンにおける近代学校教育拡充の源流」は、その意味で非常に興味深い考察が数多く含まれている。これに触発されてちょっと調べてみた。

ブータンの近代教育の原点にはカリンポンのグラハムズ・ホームというミッション系の寄宿学校があった。1914年前後にこの学校に送られた46人が、最初に近代教育を受けたブータン人であるとされる。それだけではない。初代首相ジグミ・ドルジがブータンにおける近代教育の開始に貢献したことはよく知られているが、ドルジ家の本拠はカリンポンで、当時、ジグミ・ドルジの祖父、カシ・ウゲン・ドルジは町の名士の一人で、グラハムズ・ホームの創設者であるJ.A.グラハム(John Anderson Graham 1861-1942)とも親しい友人であったとされる*1。後にグラハムはカシ・ウゲン・ドルジの紹介で初代国王ウゲン・ワンチュクへの謁見も果たしている。

ドクター・グラハムはロンドン生まれ(父はスコットランド人、母はアイルランド人)で、早くに父を亡くしたこともあり苦学したが、最終的にエジンバラ大学を卒業した。若い頃に教会活動に目覚め、海外植民地における布教活動の一環として1889年にコルコタ経由でカリンポンに入っている。1895年にスコットランドに一時帰国するまでの第一期カリンポン滞在中には、絹取引や農業フェアの開催、病院建設などの近代化啓蒙、社会事業などを中心として活動しており、教育は当初の目的ではなかったようである。

彼は帰国中に2冊の本を執筆しており、そのうちの『閉ざされた3国への扉』*2を読むと、この時点ではブータン国内への布教に対する強い信念はあったものの、実際には国境付近までいって様子をうかがう程度しかできなかったことがわかる*3。なお、3国とは、チベット、シッキム、ブータンのことだ。同書には当時のカリンポン周辺の民族事情などが豊富な写真で紹介されている。グラハムは「ブーティア(Bhutia)は要するにチベット系民族の総称で、ブータンやチベットから来ていようが、シッキムに住んでいようが関係ない」と説明している。実際、同書にはブータン人、レプチャ人といった説明の写真が多数掲載されているが、「ブータン人家族」という写真に写っている人たちがチベット風の服装だったり、「レプチャ人」の写真で貫頭衣の女性とキラと思われる衣装の女性が並んでいるなど、少数民族の混在地によくあるように民族的出自をことさらアピールするような習慣はないように見える。

グラハムはこの地域はブータン支配時代の30年前は人口が疎らだったが、英国領になってから(つまりプナカ条約以降)人口が増え、農民は統治に満足していると証言している。このあたりはどこまで信じていいのか微妙だが、少なくとも当時の一般的な認識としてブータン人は「温和な隣人」ではなかったようだ。グラハムは「当地の母親がいうことをきかない子どもを脅すときは『ブータン人が来るよ』と言う」「ブータン西部に住むネパール人やシッキム人は、本来の彼らの習慣にはないことだが、家を建てるときに戸口を2ヵ所に作る。ブータン人が来たら反対の戸口から逃げるためだ」という2つのエピソードを紹介している。

同書の最終章はいつの日か「暗黒の地」ブータンへの布教を、という発願で終わっている。ブータン政府はチベット政府より悪いとも言っており、あとでウゲン・ドルジや国王にどのように言い訳したのかを想像するとちょっとおかしい。

ブータンの高等教育の大部分が現在でもインドを中心とする海外留学に支えられていることはよく知られているが、第3代、第4代国王とともに近代化を進めた閣僚やテクラノートの多くはそういった「洋行帰り」組だった。初期に留学の必要性は認識されていなかったため、平山論文でも「1970年代の官僚の大部分が名家出身でない理由のひとつ」と指摘されている。その通りだと思うが、それでは1914年の第一期留学生がどのような出自の構成で、その後どのような人生を送ったのかは興味のあるところである。

グラハムズ・ホームは、設立者のバックグラウンドでもわかるように本来は一般的な意味での高等教育を目指したものではなく、むしろ信仰的な理念に基づく福祉的な事業だったと思われる。1900年の設立当時の目的は西洋人と現地女性の間にできた、そしてその結果惨めな状況にあった子供たちの救済であり、一種の孤児院のような性格もあった。その方向性はグラハムが生きていた20世紀前半は継承されていただろう。この教育方針については現地のレプチャ系の住人、特に既にキリスト教化していた住人からの反発があったようだ*4。「ドルジ家に居候してグラハムズ・ホームで勉強する」ということに、当時のブータン名家が消極的であったのは、必ずしも近代教育への反発だけではなかったように思われる。

ダージリンにはグラハムズ・ホームに先立つ1888年にセント・ジョセフ・カレッジが開校しており、この地域の高等教育の選択肢のひとつとなり得たはずだ。平山論文では初期のブータンにおける教授言語がヒンディーだった理由を、さらに高等教育に進む場合、その方が有利だから(インドに留学することになるので)と推察している。卓見だと思うが、その一方でブータン人はインド文化の影響に対して特に有識者の間に強い抵抗があり、一方で、グラハムズ・ホームが既に述べたような理由もあり、一般的なインドのミッションスクールに比べて教授言語として英語を重視していたのが評価されたという可能性を検討してもいいのではないだろうか。つまり、ヒンドゥーの習熟が近代教育を(インドで)受ける上で有利なのはわかっていても、あえてそれは避ける、ブータンのいつもの「オルタナティブ」戦略がここでも、しかも非常に早い時期から働いていたのではないかという可能性だ。

さて、現在のブータンが学歴社会であることは明白だが、「学閥」があるか、ということについてはよくわからない。1914年の1期生について調べたところ、確認できたのはロポン・カルパとバブ・タシがその中に含まれていたということだけだった。どちらも1960年前後のブータン近代学校教育の幕開けに活躍した人物で、平山論文にもロポン・カルパがタシガンの、バブ・タシがシェムガンの学校の創立に尽力したことが紹介されている。なお、ロポンは「学僧」に対する敬称で、ゾンカ語地域では教師の敬称に転用されており、本名は「カルパ・ワンディ(Kharpa Wangdi)と思われる。同様にバブも、こちらはネパリ系の師匠を意味する敬称なので本名は「タシ」と思われる。

クェンセル記事によれば、この2人はブータン人として最初に教育学の専門教育を受けた教師である。言い換えれば、最初の留学生を送り出す際に、既に将来のブータン人による高等教育を明確に計画していたことがわかる。この最初の留学生については平山論文で人数も時期もハの学校との関係も、資料によりバラバラでわけがわからないという指摘がされており、それはそれで、いかにもブータンらしいいいかげんさなのだが、その一方でそこまで先を考えて、また実際に、30年以上たって教育の近代化が待ったなしとなった時点でちゃんと(人材確保が)間に合っている、というところもブータンの一面である。

話は脱線するが、ロポン・カルパは生徒から「虎先生(ロポン・タク)」と呼ばれて怖れられていたという証言が数多くある。ブータンの教育現場において体罰が、少なくとも近年まで一般的だったということについて、それが英国-インド経由でもちこまれた習慣なのか、それともブータンの伝統文化に根ざしたものなのかについて先日、平山さんとちょっと話したが、最初の先生は「仏」ではなく「虎」だったのは確かだ。なお、ロポン・カルパはペマガツェルのカー出身で、晩年は寂しかったという。

もう一人のブータン初の教師、バブ・タシもペマガツェルのドゥンミン出身*5だ。ロポン・カルパの出自はよくわからないが、バブ・タシの方は1958年のユルン中学校開校の際にドゥンパ(郡長)でナクツァン(マナーハウス)に住んでいたとの記述がある*6ので、おそらく旧家出身で帰国後は教育の現場を離れ、行政畑に移ったのではないかと思われる。ユルン中学の初代校長が彼ではないのはそういう事情だろう。なお、記事によれば、バブ・タシは日記が現存しているようで、初期のブータンの教育事情を知るためには将来の公刊が期待される。

ユルン中学の2期生には現厚生大臣のZangley Dukpa(ザンレイ・ドゥクパ)がいる。彼はその後設立されたサムツェの師範学校で学んでいる。一方、バブ・タシの息子、ソナム・トプケは父と同じくグラハムズ・ホームを卒業しており、長らく最高裁長官を務めるとともに憲法制定作業の中心となった。その功績を認められてブータン最高勲章(Druk Thugsey)を受勲している。この勲章の受勲者の中には他にも何人かグラハムズ・ホーム出身者がいる。おもしろいのは、その中の2人、ジグミ・ヨゼル・ティンレイ(現首相)とサンゲイ・ニンドゥプ(元厚生大臣、4代国王の義理の兄弟)はグラハムズ・ホームのそれぞれ70年(Heathland Cottage and Willingdon Hostel)卒、71年(Laidlaw Cottage and Willingdon Hostel)卒と1学年違いで、しかも2008年に行われたブータン初の総理大臣選挙の対立候補だったということだ。ちなみに、現首相は在学当時に主席ですでに一目置かれていたとされるので、「先輩」への挑戦は最初から厳しかったかもしれない。

*1 ”A Brief History of Bhutan House in Kalimpong” Khandu-Om Dorji,
*2 ”On the threshold of three closed lands; the guild outpost in the eastern Himalayas” J.A.Graham, 1997, ”
*3 1980年代に本格的なミッションが計画されたが、担当者の急死などの事情で実現しなかったようだ。
*4 レプチャは東ヒマラヤの多様な民族・言語の中で例外的に独自の文字(文語)をもつなど、ある意味で文化水準が高い。このあたりは鋼を改めて検討してみたい。
*5 カー、ドゥンミンはどちらもペマガツェルの、お互いに隣接したゲオで、つまり二人は同郷だ。このあたりは自動車道路から離れているため、ブータンを代表する僻地だが、現在、日本の志鷹建設が横断道路を建設中だ。いずれにせよ、ブータンにおける最初のプロ教師が2人ともゾンカ話者ではなくツァンラ話者で僻地(ただし近代化以前は僻地ではなかったとも言える)出身だったというのは興味深い。
*6 ”Bhutan Observer 2009/11/16″