チベット南部のインド交易と諸派の歴史的展開

さて、ここまでの話をまとめると次のことが言えるのではないか。まず、カギュ派はその成立の非常に早い時点からインドとの経済的関係をもち、またその中継地であるブムタン、パロ(チュンビ渓谷)との深い関係をもっていたということ、そして、カギュ派の布教は仏教伝来以前から存在した、そういった経済的な関係を基盤に進められたであろうということだ。 (さらに…)

カギュ派と対インド貿易

さて、話はいったんマルパ・ローツァワに戻る。マルパが若くしてインドに修行に出かけたとき、裕福な家系の息子、後に「ニョ氏の翻訳官」として知られるヨンテン・ダクパと同行したという。彼はマルパほど熱心に勉強しなかったので、帰国の折りにはかなりの学識の差がつき、そのことを快く思わなかったため、帰途の間にマルパを陥れようとするが逆にやり込められてしまうという、というのがカギュ派に伝わる伝承である。 (さらに…)

カギュ派初期の高僧とブータン

さて、再びカギュ派の歴史に戻ろう。マルパの出身地がチュキェルであるにせよ、ドボルンであるにせよ、彼は「国際貿易都市」で育ったことになり、しかも、そこで商われていた荷の一部はギャ、つまりインド産である。幼少時から語学に興味があり*[01] 、インドに留学して、翻訳官(ローツァワ)として大成したのも、ある意味当然だといえよう。自伝に書いてあろうがなかろうが、彼が貿易の実務や、それを通じて得たブータン事情に精通していたのは間違いないと思われる。またそれは――本人の学問的興味がそういう方向に向かなかったとしても――弟子であるミラレパにも継承されたはずだ。 (さらに…)


  1. “The Treasury of Lives”http://www.treasuryoflives.org/biographies/view/Marpa-Chokyi-Lodro/4354 []

ロダク県の街道と寺院

ロダクの古街道を調べ直して改めて気がついたことがもう一つある。セからドボルンとは逆、つまり北に向かって高原地帯に入り、クーラ・カンリの麓を巻くようにしてロダク・タワ・ゾン、というよりむしろラルン・ゴンパ(ドゥク派ではなくニンマ派の方*[01] )に直行するルートが存在することである。実はロダク街道は、モンラ・カチェン・ラを越えてチベット側に入ったところでクーラ・カンリ山塊に突き当たってしまうため、大きく東に迂回する。つまり、まずクリ・チュの本流を下り、次に支流を遡ってロダクに到達する。目的地がロダクである場合はまだしも、さらにギャンツェ、ラサまで目指す場合には、これは遠回りでしかない。 (さらに…)


  1. ツァンパ・ギャレーが開山したドゥク派の本山はRalung རྭ་ལུང་ で、こちらはLhalung []

ロダク県のカギュ派寺院とブータン

ジャカルの病院の隣にあるセ・ラカンは、正式名称がSekhar Dratshangだが、もともと西蔵自治区ロダク県にあるSerkhar Gutok Goenpaにちなむ寺である。細かい事情は不明だが、その建築時期が1963年であることから時代背景は想像がつく。ロダク県のSekhar Gutok Goenpa(桑喀古托寺:སྲས་མཁར་དགུ་ཐོག་དགོན་)*[01] は伝承によれば11世紀にマルパ・ローツァワことマルパ・チェキ・ロデ(1012-1096)の命によって弟子のミラレパが建てた寺で、その際に、何度も理不尽なやり直しを命じるなど、無理難題が課せられたという逸話が有名である*[02](さらに…)


  1. 現状については「西藏桑喀古托:圣地秘境的千年古寺」http://travel.sina.com.cn/china/2011-11-03/1155164365.shtml参照 []
  2. 従って本来はカギュ派の寺だが、現在はゲルク派の寺になっている。「原为噶举派寺院,后改宗格鲁派」http://www.xizang.gov.cn/jdfb/47469.jhtml []

GLOFとオプツォ家

先日の「第3回日本ブータン研究会」、いろいろ勉強になったが、ブータンの山岳地帯についての帝京平成大学の小森次郎さんの情報は、旅行者が足を踏み入れるのが難しい地域ということもあって刺激を受けた。物事を裏からも眺めてみることは重要である。その点、小森さんはブータン北方の山をブータン側からだけでなく、チベット側からも見たことがあるという、非常に珍しい経験をもっている。 (さらに…)

ドゥンサムの「湖水魚蛇型」伝承3

メラ・サクテンの移住時期

文献資料が不十分なこと、また、それがゾンの火災などの影響で、ある時期のものがごっそり抜けていることがあること、文献そのものが僧侶が宗教的な目的で書かれたものが中心で「世俗の雑事」あるいは「紅旗征戎」にはそもそも関心がないため*[01] そこから客観的な史実を再構成することが難しいという根本的な弱みがある。また、これはブータンに限らず歴史資料一般に言えることだが、中央からの視点で周辺が描かれ、そもそも周辺と位置づけられた地域は極端に記述が少なくなるといったこともある。 (さらに…)


  1. 「ブータン資料はすべて、俗世のことには関心がない僧侶の手になるもので、この時代のブータン史の一面しか伝えず、すべては純粋に宗教的観点から書かれる。」、今枝由郎 『ブータン中世史』、「(シャブドゥンの伝記に関して)著者の精神的また学問的素養が逆に主題を曖昧なものにしている。この伝記からは、シャブドゥンは著者が展開する仏教のややこしい論議の中に推し消され、幽霊のような形でしか現れてこない。」,アリス,”Bhutan: eary history of a himalayan kingdom” 。この点は比較的その傾向が薄いとはいえ、ギャル・リグや、更に言えば(僧侶が語り手になることも多い)伝承にもいえるだろう。 []